否定的殴り書き(よつばと!14巻他作品全体に関して)

 新刊が出たのだが、読めば読むほどこれが幸せなディストピアに見えてくる。幸せのパッケージとして現代にどんどん絡め取られてゆく気がする。

 クレープのホイップクリームのような甘い夢想に溺れて、静かに、変わらず終わらぬ、成長すらもなく、ただ大人たちが称賛する驚きと発見だけがあって。これは即ち甘いユートピアと言う、畳語である。


 そもそも物語開始時におけるよつばの到来とは、誰にとっても非日常の陥入であった。しかしこれが日常へと着地してゆくにつれて、物語は不気味さを帯びてゆく。

 よつばがビュッフェで感じた幸せの飽和への、薄ら寒い根元的な不安は、この終わらない日常の真の恐ろしさを内部構造から突き崩してゆく端緒となり得るかに見えたが、また即座に子供の素晴らしさを謳うメッセージに回収され行く。そんなことでは小揺るぎもしないのが、真白のクリームでできた牙城。
 逃げ場がないのではあるが、しかし逃げることなどナンセンスである。とはいえこれは全く理想郷などではない。新篇反逆の物語と見事な相似形を成す完璧な世界。外界なき偽りの楽園と、使命を忘れた仮初めの天国。
 これは子供を育てる、という使命を十二分に果たしているとも思われよう。しかし、それはこの場合もはや世界を維持する自動人形の決まりごとに堕しており、本物の日常へと接続したはずの作品は現実の育児を忘れて夢をたゆたい繰り返すだけである。

 ......よつばが出てこない時、よつばと子供とが出会われる互いの真剣の時。そのたった二時のみが、彼らの世界を社会へと接続する道である。正常な世界へのわずかな縁である。彼らの連関の全体は恐ろしい。白く散光する甘いメレンゲ。それは私を窒息させる。




 今となって語るは詮無きことだが、思い返してみれば確かに11, 12巻辺りからきな臭い空気は漂ってきていたのだ。画面が著しく整ってくると同時に、作品と子供を取り巻く空気が変化するのを。それが意味することをよく知らないままに感じ取っていた。
 些末なことだが、長期間刊行が空いたためか、切れ長の目をしたキャラクター類型の作画が大きく変わっていて、同一性を保てなくなり始めている。


 この漫画に出てくる大人は一切の苦悩をしない。見せない。それはふたばに見せないという作品論的な次元で解決可能なものかもしれない。
 しかし、その割りには、あまりにも磐石過ぎるのだ。あまりに子供に人生を捧げていて(本当はそんなことないのだろうが)、彼らは先駆的決意を彼女に既に託してしまったとでも言うのか。

 そんな中にあって、調和の破壊は突如訪れる(予兆はあった。しかしここまであからさまな暴力性を帯びて登場させるとは、誰も思わなかったのではないだろうか)。
 表情を持たぬ顔で通りすぎようとする、東京の改札のおじさん。彼は異様に生々しく、浮いている。最大限マイルドに描かれたそれですら、これまで戯画的に描かれていた日常人の情けなくもほほえましい姿からは激しく乖離して、欺瞞の欠片もなくただ苛烈だ。
 東京と言う世界の恐ろしい賑やかさと内部に秘められた破裂寸前の、釘の詰まった風船玉のような澱んだ癇癪。この生々しい本物の現実が垣間見えてしまったことによりよつばは空転する。
 この14巻においてはそれ以前にも、ステレオタイプにおもねってしまったような、"らしい"子供のぎこちない反応がそれまでになく何ヵ所にも披瀝されるのだが。
 それでもコミカルなモブ達と街の人々の(少なくとも)見せ掛け(以上であることは確かである)の陽気さはそれを過剰に取り繕うかのようで、それまでの流暢さを失ってしまった彼女のごっこ遊びをしかし全力で、飽くまで自然を装って彌縫しにかかる。
 これは見事にこの世界の外側を隠蔽することに一先ずは成功する。しかし本来は寧ろ彼のおじさんの方こそが人間的人間であるはずなのだ。彼の登場は幻想の国の自己矛盾の亀裂から上がった悲鳴なのか。

 彼の生命、生命ゆえの疎外と解離と頽落という真実をば、しかしこの作品の全ての意図的な力動は巧妙に覆い隠そうとする。すべては子供のため。すべては子供のため。




 物語は単純だ。よつばが世界に驚く。大人たちはそれを助け、またより大きな驚きを見せようとする。しかしそれが観衆を意識するがゆえに躍り手の自由が逆に際立っていた初期と比べ、巻を重ねるにつれ第四の壁はリアルな作画によって取り払われてゆき、私たちの日常に接続する。
 構成は巧みになり、細密さも上昇して、これこそが私たちの生きうる日常だと主張する。だがそれを見つめる眼差しが人々にマリオネットの糸を絡ませた。作品は時間をかけすぎたのだ。
 もはやよつばは成長しない。成長することを許されない。成長できない。無垢な喜びを維持しすぎてしまったから、演劇するのには無理が出ている。作品世界は綻びを呈している。すでに悲鳴をあげているのだ、窒息しそうなこの空気に、現実と接続するはずのことを無理矢理塞き止めている誤魔化しに。

 作者ですら、いやむしろ彼こそが、そうであるか。新作そして"名作になる"につれ刊行ペースが極端に落ちたことが、その軋みを象徴すると考えるのはきっと邪推であるのだろう。


 それでも彼らの世界はやはり飽くまで自然に営まれているらしい。そこでは誰もが子供を想い、子供を中心に世界は回る。少なくとも、そう見える。それは未だに、あり得る日常そのもの。
 しかしこれの視点は誰なのか。これを映して提供してくる窃視者は誰なのか。いい加減に彼らを写すカメラの欺瞞が露呈してくる。観測者なき記述は存在しないから。この作品を取り巻く空気は徐々に、よつば自身の頸を以って、真綿のように括れ殺してしまうのではないか。

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