(かつ) 日記でも小噺でもなく

リズと青い鳥覚え書き

 未整理の論点を一先ず纏めておく。
 現在素晴らしい論評やブログを幾つか発見している。また今後パンフレットや資料(いずれも未入手)を読み込むことで論点は増えるし、私には指摘しきることはできないだろう。二次文献や制作者側の情報を仕入れることによる弊害などもきちんと見つめながら収集と観賞を進めたいものである。


 しかしリズは多面的な映画だ......。





 ・最後は、解決し切っていないのだ。しかも、それでよいのだ。だから、「ちょっと待ってて」「わたしも」
 ・顔を背けるモチーフについて。希美
 ・優子の心情の整理。彼女がみぞれの肩を持つのは?音楽室のシーンや準備室でのやり取りの時の彼女の立場の、はっきりとは不明であること。多分、彼女の立ち位置が、ユーフォとリズが混じってしまっているゆえにもっとも不成功だった
 ・互いに素の象徴の数々
 ・飛べない鳥の象徴の数々。キーウィ、茹で玉子。しかし悪いことばかりではない。茹で玉子は「(塩)味が付いてて美味しい」のだ
 ・前半の、ユーフォ意識してしまっていることのジレンマ不協和
 ・みぞれに執着していることのカムフラージュ
 ・希美はみぞれを見つめ続けて、しかしみぞれが見返したときに、目をそらしたり、微笑みかけたりする。気紛れな神として。廊下でのみぞれからの大好きのハグを拒否した理由は



 ・表徴に、意味は明確に付与されている。しかし、言語化することが極端に難しい
 ・夏紀は、やはりさすが、耳がよくなくても、さとい。初見にも分かるような脚本が為されていて巧みだ
 ・不協和は、お互いのあの転機までずっと深まって行くのだ。そこで、みぞれも希美も考えの転換が起こるのだが、希美は一筋縄ではいかない
みぞれは、大きく変わるのだが(よくも悪くも素直で一本気あるから)、希美は、ようやく自身の気持ちに整理がついたというだけなのだ。どの様にかは、不明なので読み解く必要
 ・童話パートは、もっと異空間にすべきだった。音が特に。リアリズムを付与してしまったことで劇空間と地続きになってしまい、自然なだけに不自然になってしまった。本田望結は悪くない。ユーフォ空間に入ってしまったから、本田望結は批判されてしまった。やはり、前半のファンサービス、ユーフォの文脈が邪魔である。本当に、二人とそれにまつわる重要な人物(夏紀、優子、梨々香、新山先生、パートの子ら、高坂麗奈......)だけの世界にすべき、というか、そうしたかったのだろうな(これが山田尚子の「愚痴」だろう)。モブにならないことで、象徴的な発言の説得力が強くなるメリットはあるが、別の物語を読み込むノイズが発生する。一長一短だ
 ・「わたしも嬉しい」「それに......」希美が、この自由曲を喜んだのはなぜか?
 ・女の子は首筋が命だ
 ・希美はやはり、きちんと言語化できない。なまじ、言語かするのが得意なばかりに。みぞれは、言語化できないことを素直に戸惑い、体で動かしてしまえる
 ・アンコールブラボー(六月の)は、確かに要らないなあ。あれは明確にちょんぼだ
 ・希美の役はやはり難しい。悪くはないのだが、ユーフォ成分が邪魔である
 ・これは所謂ハイアートではなく、クラシック的な価値観(吹奏楽曲という膾炙している文脈)が支配しているから、オタクにも受け入れられるのだろう
 ・つまるところ、彼女たちにとっての救いとは、何だったのであるか?どこまでは救われて、どこからはこれから時間をかけて良くなっていくことなのだろうか?




 登場人物たちの行動や台詞の意味、理由を語り合う時間。
 E.E. は、そもそもが失敗作だから、コンセプチュアルアート視を考えたわけだが、これは失敗作ではなく傑作の類いなので、その必要はなくいきなり作品論、意味論的な解釈に入れる。



 ・山場がないということは、確かに言える。というか、ないのは山場じゃなくて(それはオーボエソロと二人の正面対決で担保されてる)、序盤から中盤までの密度だ。ファンサービスと真面目にやりたいこととの塩梅がとれていない。だから、少々描写不足で、印象をしっかり残せぬままに転々と進んでいってしまった感は否めない
 ・希美はみぞれを無視していない。むしろ、意識していることを気取られたくなくて、無関心の振りをしているのだ。序盤は、それでもかなり無理なく、素朴だったが、みぞれの実力との背馳が浮き彫りになってくる中盤(音大受験のわたり?)になって、こじれる、というか、自覚と顕在化と行動化。みぞれは素直だけど引っ込み思案で、希美はクレバーだが子供で態度にすぐ表れる。ことばが巧みで解離できるから、なんとなく繕えて(アリバイ作りができて)、言葉とボディランゲージの背馳にみぞれは混乱する(六月の)
 ・細かな手脚の動きの意匠、視線や表情の変化、それらの象徴的意味と心情的(物語的)意味。脚、手遊び、腕(肩)、くるっとターン
 ・舞台面上の意味合い。かみしも、上下(じょうげ)の位置関係
 ・トポスの読解。学校、理科室、部室、教室......。また窓の位置などそれの構造も
 ・色彩。人物帰属や作品特有の象徴的意味合い
 ・希美のことばの逐一の読解。彼女のことばはずば抜けて多義的で難解だ。表情や身体表現と合わせて
 ・みぞれからの、自分の賛美に、下を向いた視界には拒絶するように身をよじる足の落ち着かない動きが写し出される
 ・新山先生と希美との会話シーン。決意するように足をトン、声色は変えずに、相手のことば遣いの底意をよく読み取り、動揺し、おとなしく引き下がる
 ・他愛ない希美みぞれの会話シーン、上→下、中盤、「はいはーい、わっかりましたー」
 ・音楽室での、役員会議。希美からみぞれへの内心の牽制の気持ち、台詞とことば遣いと場の空気
 ・大好きのハグの説明は、十分自然だったと思う。全然滔々と説明なんかしてない(六月の)
 ・新山先生、滝先生の指導の仕方があまりに舞台装置的で、生徒の事を考えてないというのは、そうだと思う(六月の)
 ・ギャグはともかく、キャラクターのユーフォ的キャラ性が、この作品を完全に邪魔している。具体的には、大人組、優子、前半のbgm、緑輝ら、フルートパートの子ら、タブルリードの会(この中から剣崎梨々香だけが単独で動く、という場合を除く)
 ・梨々香みたいなアニメキャラ的な子、案外いる。彼女はとてもうまい造形だと思う
 ・童話パートは、やはり評価が難しい。時間経過をおくための緩衝材になっている貢献は確かにあるのだが、これ自体の印象が限りなく薄い鑑賞体験になるのだ
 ・たなびくスカート、揺れる髪の毛
 ・風吹くこと、時間帯、転機、体の動かし方(希美、中学時代は実に素直にあの性格だったんだろうな。自我に目覚めちゃって、自己の矮小さに、これを隠してカリスマ張り倒した結果、とは邪推か?)
 ・ユーフォ本編の、部活やめる/復帰騒動との折り合いがつけづらい。みぞれの、希美への思慕や認識はどんなものなのか?やはり、断絶がある。これはユーフォではなく考えるべきだ
 ・希美の演技じみたしゃべり方は、カリスマの糊塗か、キャラ的なことば遣いか、精一杯の虚勢か、みぞれを負担に思うからか?僕は、虚勢だと思う、みぞれを一方的に重く思うのではなく(確かになんだか重いとは思ってるのだろうが)、自身もしっかり依存している。その他大勢の中から特権を持って現れてきてしまったみぞれ、彼女への特別視をカムフラージュするため。重いのかなあ?ここは、要検討
 ・本編の、希美退部・復帰騒動の整理が必要。難しい。どう連続させるか、それとも切り捨ててしまってよいか
 ・(六月の)みぞれのご機嫌を取らなければならないポジションだったか、希美は?
 ・あがた祭に誘って、みぞれが自分だけを見ててくれてることに明らかに希美はほっとしている。逆に、プールの時は、ぎょっとした表情を、即座に繕う。(六月の)
 ・教室での夏紀と希美。夏紀は別に地雷踏んでないと思う。希美はずっとみぞれの事を思案していて、夏紀は希美の求める情報をくれないから、やはりもやもやは晴れないまま。(六月の)
 ・本編主人公コンビの戯れを見た希美の、「あたし、ほんとに音大行きたいのかなぁ......」。優子は、みぞれの肩を持って、また嘗てのようにみぞれを振り回すのか、と言っている(ように見える。しかし優子のこの発言をそう取ると、あまりに本編に依拠しすぎで、しかもキャラ的にしか聞こえないから、とても解釈が難しい)。希美はどうか?なぜ、これをきっかけにして、虚飾を取り払って、友達に審判してもらおうかなと思ったのか?
 ・たくさんの鳥が飛び立ったのはjointしたことによるのでは?(六月の)jointなところ:曲の解釈の正しい反転、自己認識への決定的な変革。いまだdisjointなところ:自分がなにをすべきか知ったみぞれと、呆然としたままに留まる希美、
 ・(六月の)部活のために自分を殺してきたから希美は絶望したんじゃないでしょ。部活のため何て欠片も思ってない。そもそも、去年無理を言って再入部したのは自分で、そこはきちんと仁義を感じてる。部活の犠牲になったとは、感じてない。しかし、なぜ涙したか?才能と言うだけじゃなく、うまくいかないこと(要出典)ばかりで、正直にもなれなくて、気持ち悪い己れの、一入に感じられて、これが、あまりにも素晴らしいソロであること。とても、吹いてなどいられないし、私の音を混ぜることもできない。なぜ?綺麗だから、力不足。だけじゃない。なにか感情が噴き出して、吹けなくなってしまったのだ。それはどんな感情か?
 ・理科室での二人のやり取りの詳細な検討。はじめの皮肉っぽいことば、みぞれが、「希美が、私の全部なの」。決定的に、希美は拒否する。みぞれのことばをことごとく遮る。確かになげやりだ。もう、人の話を聞いてあげる余裕ある自分を演じられない。しかし、ことばは、見事に自分をことごとく裏切る(これは描写がないので僕の共感力だ)。なんだか、ことばが、希美の心を滑るのだ。相手のことばをしっかり拒絶する力は持つのだが、自分の心を正しく反映する力は持ってくれない。この事を苛立つ描写はないから、きっとこの事には言語的な整理とかついてないのだろう
 ・ヤマカンの「厭世感」「愚痴」は、表現手法への嫌悪と、物語のない内的救済への食傷と(これは僕は描くべき救済だと思うのでヤマカンには反対したい)、それから、ユーフォに轢かれてしまった山田尚子の愚痴。三番目の意味でなら、僕も彼女の嘆きを少し聞き取った気になっている



 救済には内的なものと外的なものとがあって、それの手段にも内的なものと外的なものとがある。どちらもそうだが、特に手段の方の内外は、程度問題である。具体に結び付かない心理的出来事はなく、心に何ら影響しない具体的な出来事、課題もないからだ。しかし、おおよそそのような分節軸を設けることは不自然ではないと思う。
 外―外は、普通の物語。具体的な問題(やそれに紐帯付けられた類いの心理的葛藤)が、具体的な事件や出来事によって解決する。ヤマカンが好きなやつだし、普通のもの。また、キャラ文化は、これの極致で、純度100%の外在である。
 内―外は、やはり、ちょっと捻ったような物語だが、所謂純文学に多い。自意識の問題である。それが、具体的な事件、人との関わりを通して、何らかの解決を見るもの。もちろん、解決しませんでした、でもいいのではあるが。聲の形はこれである。
 外―内は、伝説のTV版エヴァのようなあれである。大概、解決しないが。
 そして、内―内が、リズのような。徹頭徹尾、出来事というのが起こらず、解決というのも、明確に主題化されない。だから、結局何が起こったの?という感想を抱く(ヤマカンのような)人が出ることも宜なるかなではある。



 ・リズは、不仲があって、なんとなーくそれ、動機が微妙に変奏されて、気付いたら解決した風な感じで終わってる、ボーッと見ていたら多分こういう感想しか抱けないのだろう。私も初回はそれに近かった。みぞれを評価しつつ、希美が人間になりきれない、最後までキャラで残念だ、そう思っていた。それは反面当たっていて、人気者を演じる声はキャラ的な声にならざるを得なかった(、、、、、、、、、、、、、、、、、)、そういうアニメの現在のようなものが、希美にヴェールをかけてしまっていたから。アニメ文化(これがユーフォであること)のせいである。アニメ声と人気者声を、アニメ性を保ったまま人間にも架橋する、なんて絶対無理だから。みぞれ、夏紀、梨々香(、久美子、あとぎりぎり、麗奈)は、アニメ声を作る必要なかったから(キャラクター声ではあるが)、よかったのだ。キャラ的な人とそうでない人がいる。緑輝や葉月はキャラ、久美子や麗奈はそうでない人。みぞれは元々前者だったが、寡黙だったので後者に華麗に転身できた。問題は希美で、彼女はどちらかといえば後者寄り、という程度の中間的なキャラクターだった。それが、人気者属性をつけられることによって、キャラ的な色が濃くなってしまったのだ。しかし、リーダーシップは、人間性にもキャラにも属するキャラクターである。大変難しい。希美は、キャラ文化、ユーフォというコンテンツの抱える矛盾に轢き潰されてしまいそうなのである

 ・(亀)みぞれの愛の言葉を「知ってる」ですべて片付けることはできない。なぜなら、対面してみぞれのことばを聞くときには、身を捩って拒否するかのように希美の足はそわそわと落ち着かず動いていたから。大好きのハグの時には確かに微動だにしなかったが、それは、みぞれが突然こちらにしなだれてきたことに少し驚くのと、希美が(物理的に)支えを得たから。自分の居所がなくて体を動かすのだから、自分の体を支えて自分の体感覚を保証してくれる、触れられる具体物があったら動きは止まる。たとえその依存先が、自分を現在形で苛むものだとしても
 ・(亀)飛び立たせて「あげよう」と自分を殺して我慢する、というようなことではない。希美も自分がなんとかなろうと、もがいていたシーンだと思う
 ・希美が手を回し返した意味、みぞれのことばをどう聞いたか、「みぞれのオーボエが好き」とは何を意味するのか、そのあとの間では何が起こったか、なぜ笑ったか、笑うと同時に手がみぞれの背中に上がってくること、肩を掴んで確かな様子で(勇気づけるかのように)みぞれを引き離したこと「さて、帰らなきゃ、荷物とってくるね」この時には確かに、みぞれから離れたいという純度は下がっている気がする。そのあと一人で考える廊下、呆然とした表情、深呼吸
 ・希美の顔が隠れること。最後のシーン以外では、みぞれ(=視聴者の分身)もしくは画面に背を向ける形で、しかも不穏な空気を醸すように、目元は暗く。だがさいごだけは、希美はみぞれに向けて顔を向けている。画面に背を向けるが、決して暗く屈折した雰囲気ではない。それに、みぞれが見ているのだ(他のシーンでは他人に気取られないようにする、という風の演出である)
 ・ed一曲目短調は、すべての解決でないことの当惑の宙吊りを暗に示す上で必要だった、と三回目にて思い至った
 ・しかし結局、評価が変わらなかったのが、「この作品がユーフォであること」の瑕疵である



 ・上に立つため。希美は自身が特権的な一(いち)になり、みぞれが多の中の個となることで、主導権を握るのである。かごの中に閉じ込めておく、いつ戯れてもいいようにするのである、無自覚に。それが、鳥籠の中の青い鳥。「どうして私に籠のあけかたを教えたのですか......」
 ・希美は、無意識にパワーゲームで戦っている。発達不全である。しかし、みぞれは個として、人としての関係を望んでいた。次元が違ったから、噛み合わないのである。希美は、みぞれを一人の人として見られなかった。属性として。しかし、籠のあけかたを知る、その事で、みぞれの属性に依存することから離れることを知り、一人の人同士として付き合うことを、始められるようになったのである
 ・希美の、みぞれへの依存心は、そのようなパワーゲームと、ほか、どの様なものがあるのだろうか?前回の整理は、みぞれへの複雑、自己の保全だったが、そのような自己愛的手段的執着だけでなく、みぞれ自身への自体的執着もあったのではないか?





 全く未整理であり、また私には見つけられない論点もたくさんある。長い目で見て論じなければ、演出各論に終わってしまい、これの核心を析出させることは難しいと思われる。否定しきれぬ瑕疵はあるが、かなりの傑作の類いであろう。難解さには裏があるような気がしなくもないが......。鍵となる視点軸・概念、象徴の見落としか、もしくは致命的な欠陥か。視聴と分析と体系的整理を重ねて行きたい。