雑記
優しい人は、規範から逸した感情的衝動行動―狂気―を、理解できるつもりでいる。事実そのような素振りを示していて、それはそう確からしいのだが、しかし本当のところは、それを理解することを拒否しているのではないか。ある時は我とも気付かないうちに蔑みバカにしていることによって、またある時は無限の肯定で包み込んでしまうことによって。
なぜなら彼が狂気を理解したとたん、これまで保ち形作ってきたかの優しい人の生の形は、その狂気と区別がつかなくなり、染まりきってしまうからである。気づく頃には、彼と己れとの分節が溶けてしまっているのである。まあ、そもそも気付くことはできないのだが。だから人々は、理解の手前でひらりと引き返してきてしまう。
例えば共感性羞恥、という言葉があるが、それは共感などでは断じてない。これはむしろ自己の実存を保存するための必死の防衛である。断固とした拒絶の姿勢を、自己の客観化が可能な文脈(即ち他者の失敗を見ること)において、羞恥という仕方で示す行為である。
身をよじるようにして彼ら私らがそれを拒否するのは、提示された表象を羞恥によって異化することなのである。己れをそのものと明らかに異なる主体として確保しようとする緊急的避難行動である。そしてそれは即座に、理解の拒否ということであるのだ。
なぜ「甘え」はいけないのか?
論理的な説明は成されておらず、しかしみな一様に了解する命題「それは甘えている!」の含意。この非難を理不尽だと直感するものはいまい。
私もそれを共有するものであるが、しかしニヒルな他人の説得において、これを持ち出して激怒することはできない。彼らの土俵で戦わなければならないと思うのは私のばか正直か。
これ、甘えへの断罪が、共感の底、共通理解の最低ライン、世界の関節、であるか。
これが抜けていることが、宮台や私の知人が指摘しないし怒ったものか。
エレキ、ロックは負の衝動性の発露としてのエモーション・ミュージックだから、「エモい」という言葉がよりその深刻な意味合いで使われた。言葉にならない、理性に規定されることができない類いの、甘えのような身を捩る苦しみをその音にのせて大気を乱暴に振動させ、肌でそのうねりを感じることで何時しか存在の基底からグルーヴが発生するのだ。
クラシックにおいて、それは反対に理性の発露として、地をゆっくり揺れ動かすかのような鈍重さとスケールの大きさによって表象される。我々の精神の根底に横たわるもの(もしくは天上の何物か)が、やはり音楽という形式をメディアとして具現化される。崇高だったり情念だったり様々だが、こちらは短絡の極致であるロックとは反対に、一見迂遠だからこそ直接我々の心的真実にアクセスする。
アプローチは正反対で、それによって呼び覚まされる卓越の質は異なるが、色違いのドラクエモンスターのように(喩えが安い)、その本質においては同一のものを揺り動かすということだ。
私の話さんと欲する言葉は
私の口を衝いて来ず
私のもっとも望む声を
私の喉は作り出さない
私の求める文体の
思想のかたちはペン先に滲まず
真実身を浸す音楽は
私のからだから溢れ出さない
私に輝くひとの生を
私は把測することすら叶わず
私の見せたい私自身
私の相手には伝わらぬ
人は私に私以外の何者かを見る
ある人の意図した意味内容は決してそのように表象されることはないということだ。だから人は他人の顔色を窺うし、他人の文体を羨み、自分の文体を否定し、絶望する。
詩人や作家は言葉に裏切られる、とはその事だと思う。はて、誰もが多かれ少なかれそうかもしれぬ。人によっては、それがすこおし敏感なのかも知れない。
ただそれだけのことも知らない。
もしくは、言葉に自分が従えばそれでよいのかもしれぬ。多くの成熟した大人らには、表現したい自分というのを、自己実現の極致などとしてではなく、言葉によってようやく知られるのかもしれない。丁度メルロ=ポンティの語るように、言語化し説明することによってはじめて思想は完成する。いやむしろ逆で、語る言葉にしたがって思想は生まれてくる。
順番を履き違えることも出来るが、そうすると、なかなか苦しいぞ。語る言葉に合わせて自身は彫琢される、というのが、身体的存在たる人間の宿命だ。しかし近代自我の弊害で、それが転倒してしまったのだ。身体や、言葉や、パロールやラングや、なんでもよいが何もかも、シニフィアンなくしてシニフィエなし。
しかし意図がそこに乗るわけでもなく、原シニフィエとでも呼べるようなものしかそこには元来ないのだ。シニフィアンとシニフィエではなく、それと原シニフィエとの弁証法でしかないのだ。身体現象なくして、自然な思想は生まれない。自意識は思想を妨げるものでしかない。
考えても(、、、、)ご覧よ。思惟は音楽や野球やプレゼンや世間話の際に、くその役にも立たないどころかそいつを立ち止まらせて応答を滞らせるだけではないか。考え続けることは決断を鈍らせること。決断する人は、考えることをやめた人であるのだ。
(追記
区別できるものしか言葉は弁別できないというそれだけのことだ。ここまで大袈裟に語ることはない。ソシュールの時点でとっくに気づかれていたことだ)
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