文学性、傑作?

 「物語はハッピーエンドがいい」



 ......果たしてこれは、許されるのだろうか。それとも文学研究者や文学者が語るように、願いは成就してしまったらそれは甘く、文学ではない。夢は破れて現実へと帰ることが求められるのか。私見では、このオタク的ユートピア的心性と文学とは、両立できると思う。なぜなら、オタク作品らはその作品内においては、そもそも夢など述べてないから。

 言葉の綾である。オタク系の作品群に夢がないということでは全くない。ストーリーではなくその虚構世界そのものが夢だと言うのである。それが破れるという現象とは、作品が完結することである。そこまで言わなくてもよい。単に、尺が終わって物語が閉じさえすれば良いのである。この機構によって、夢の破れは既に、原理的に担保されてしまう。必ず我々は、作品から覚めて現実へ帰る。この事が、メタ的ではあるが、文学的な「覚め」を保証する原理的な装置である(その意味ではあらゆる娯楽、推理小説、SFらも!)。

 娯楽性が強ければ強いほど、このような作品の終わり、虚構性の提示はより強く虚無感や喪失感を与える。娯楽らは逆に、夢の閾値、つまり文学性を備えるハードルはむしろ低いのである。



 いわゆる純文学やリアリズム的なそれは、これに反して、卓越しなければ面白くない。娯楽性が生まれない。簡単に言うと、作品世界が現実と区別つかなくなってしまうのだ。無味乾燥な有職故実ルポルタージュにしかならなくなるだろう?くそつまらないようなだらだら文字群が閉じたところで、それがどうした、と言う他ない。だから、作品の中身において、夢を説得力もて作り出し、おのが意志でそれを破壊しなければならないのだ。せっかく作った夢の楼閣を。だから文学には自爆装置が必要となる。

 その意味では、娯楽作品などより作品成就への道程が長いのだ。それら下らぬ数々の気取ったナンセンスや快楽へコミットしない"記録"の中からごく稀に、蜻蛉のような素晴らしいものが生まれたり生まれなかったりするのだが。通俗娯楽なら、現実と見まごう甘い夢として錯覚してしまう心配はない。夢に夢見て酔い惑い、プロ文や大政翼讃詩のように現実に奮起してしまう恐れもない。固よりその虚構性が知れているからである。

 ......勿論、文字を読むこと事態が既にして娯楽である、ということが全ての文字文化の娯楽の根元なのではあるが。濫造されるようになった現代では、古代の時間的淘汰の代わりに、審美的な議論による陶冶が必要とされる。

 こう考えると、近年のオタク系サブカルチャーの作品群に、世界観や設定を異様に凝りまくり、内実の人物たちは段取り芝居のようになる類型が多いのも自然なことだと了解できよう。夢の水位そのものを、現実からはるかに逸脱しようとするのである。グロテスクに逸脱しようとするのである。この風土のなかで生まれた、キャラ、というのも、人間性そのものを、夢のうちに含めてしまおうと言う強かな戦略のひとつである。そうすることで、夢の世界をより強固で自給自足経済が可能になるようなものにするのだ。

 その意味では、例えば今敏の作品などは、作品内部にまで文学性を持ち込んでいる分だけ真面目である。しかしむしろ過剰な文学性なのであるような気がしないでもない。つまり、文学的有意義さを意識しすぎで、不要な自爆を抱えているようなのである。まだ夢たる娯楽であるから。逆に「リズと青い鳥」などは、夢を(商業至上娯楽的作品にしては)極力排した、リアリズムを感じさせる作り方で、芸術映画や純文学と呼ばれる作品群などに近いような作り方をしている。そんなリズにおいてもまだ、作品そのものが深く強く夢であるので、ここに至っても尚、そこまで破綻的な自爆装置を作品内に設置しておく必要はないと言うのが実情であろう。



 議論を戻そう。これら、表現されたものが、作品として立ったあとは、内容の巧拙にのみ依るのである。故にこちらは寧ろ娯楽が不利である。快楽を優先した作品は、巧みさを質(しち)に入れてしまう場合が多いから。多産多死と言うわけだ。

 純文学や詩は、作品になりがたいがそこから名作への(相対的な)閾値は低い。娯楽の類いに属するものは、より多くが作品として認められ得るがそこから名作へは遥かに長い道のりである。言うまでもないことだが、作品未満の庭を抜けた純文学や娯楽を主眼においた作品らが、たとえ作品の館へと入ることを許されたとしても、そこに待つのはいずれにしても其々途轍もなく広すぎる伽藍である。その広い館だが、純文学の館の方が、後者の作品群の入るごてごてと敷地一杯に広がった大伽藍と比較して瀟洒、やや小さいというのである。



 実写映画とアニメ映画との関係とかも、きっとこのアナロジーが効くだろう。両者、傑作への道のり(門をくぐり庭を抜けてから、伽藍を進んで本尊へと たどり着くまで)はつまり、本当はとんとんなのである。しかし娯楽やアニメは劣るように見られ勝ちだ。門戸が広いから。そういう理由で傑作ですらも市民権を得られないような場合があるだろう。......当然ながら、この事実の指摘は、実際に傑作が存在するかどうかを保証するものでは全く無いが。ここからは、どれだけ公平な作品評価ができるかと言う話なのである。

 どんな人間にもバイアスはある。環境や、ジャンルそのものの低俗低劣さから、傑作がひとつとして生まれない土壌も、確かにあるように感じる。娯楽には傑作があるが、この数やそれが生まれる確率は低いだろうと言うことを直感してもいる。
 
 ......ただしアニメーションは、本当に不当に評価され過ぎているところがあるような気がする。これは単純接触効果での贔屓の引き倒し、と言うことではあるまい。それでも古典文学を凌ぐほどの作品があるわけではないが、少なくとも現代の視聴覚メディアにおいては、傑作の類いのアニメーションより、よい実写映画などの方が、その評価や印象より遥かに少ないと思う。ジャンル全体の質は基礎体力、つまりある程度の傾向を示すが、全ての個を説明するわけでもないのだ。

 これに加えて、評価されるべき人物の性格のあるべき姿、と言うの、つまり何を撮りたいか、と言う心性が既に、道徳的な良し悪しとして検閲されてしまっている気もある。作品外の「正義」は文化的に規定されていて、よそのジャンル、よその社会、よそのコミュニティ・クラスタやよそのお国の大事な価値観が、別の価値観で図られることによる無理解が発生するのだ。全くカテゴリミステイクも良いところだが、避け得ぬことなのだろう。丁度、半世紀前には(動もすると現在も、かもしれないか?)、「〈黒人〉のジャズ」は〈白人〉に"Noisy!!!"と嫌われたように。



 だから、この問題は、とっても、難しいのだ。

 (7/28修正)