幸福についての貧しい端書き

 幸福というのは、所謂安心とかとはちょっと違って、というのはつまり磐石な土台があるとかそういう感覚ではないのだろう。幸福を感じるとき、安心するとか人は言う。しかしそうではないように思うと言うのがこの議論の核である。そのとき人はむしろ、実存的な基盤が全く足元から崩れ去るように感じているのではないだろうか。そんな極限状況、生の神秘や不安がむき出しになってなお、それなのに幸せを感じられる、守られているように思える。拠って立つ足場が崩れ去ってなお、むしろ身を横たえるようにして快感に身を浴すことができる(、、、)。こういう、究極の不安定における安定こそが幸福の条件なのではないか。


 そこへ来ると存在論的な不安を常に抱えるものは、幸福を感じて無防備にさらけ出された自己が全く耐えられないわけだから、現在進行形で身体は危機に備えているわけだから、そんな無防備なんてのは自己の実存や生命を、目に見える(、、、、、)危機にさらしてしまうことに他ならないのだから、幸福を感じるなんてことはあり得ない(、、、、、)。あってはいけないという意味で、忌避すべきものの筆頭なのだ。


 ここで残っている大きな問題は、幸福を感じるとき実存の安心が崩壊するということの是非である。ブランケンブルク流に言えば自明性が喪失して、なお安心が感じられる、というのがここでいう幸福なのだが、本当にこのようなことが幸福と呼ぶことができるのかという問題。更には幸福を感じるとき本当に実存が(強固になるのではなく)むしろ崩壊しているのか。恣意的で文学的な比喩にすぎないのではないか。仮にそうであるというならば、この「幸せなのに実存が崩壊する」という逆説はどんな機制に依っているのか。この直観を科学的に(、、、、)探求すること、直感ではないと示すことが、この研究の要諦である。