(無題のドキュメント)

 簡単にいってしまうとですね、僕ら若者世代はみんなロストジェネレーションに憧れているのです。僕の周りの人たちってみんな偉いですよ。人や時代のせいにしようという人は誰もいなくて。人はみんな自分にできることをおおよそ全部きちんとやって、若いのにコツコツ真面目に頑張るんです。

 早熟にして海外とかグローバルとかで派手に活躍している人だけじゃなくてね、普通の人も普通なりにすんごく偉い。むしろ普通の人の方が特別に偉い。自分をよくするための努力を怠らないのに、一人分の人生を生きられるような、すさまじいバランス感覚があるのね。驚嘆しちゃうわよ。なかには例えば僕みたいに、そういう努力なんてものをやらない(やれない?)人もいるけど、彼らは(僕らは?)そんな人をもバカにしないんです。ま、そもそも人をバカにするような余裕、ないんですけどね。

 人のせいにしたり他人を見下している暇があったら自分にできることをしましょってことです。昨今の風潮としてもよく表れてるじゃないですか、ほら、例えば、国民が政府目線で大局的にものを見るようになったって。おんなじことですよ。人のせいにするんじゃなくて、自分に与えられたパイの中で頑張るんです。誰かからそのパイが奪われたものだとか、そういうことは考えない。ちょっと前に流行ってたようなあまっちょろい考えがなくなって、みんな大人になったんですよ。結構なことじゃないですか。



 それで、たまにそういう厳しい空気が耐えられなくなって、ドロップアウトしたりこうして、ほら、少し昔を羨んだり、なんだか愚痴っぽくなってお母さんやお父さんを殴っちゃったりする人が出てくるわけですけど、そういう人を見たとき、善良なる意志の人びとは彼らを鞭で叩いて叱咤激励するのか、と思えば、どっこいそうではないんですね。

 じゃあどうするかって言いますと、この人たちは、ああ、そういうひともいるんだあ、と優しく迎えてあげるわけなのです。僕は違うけど君はへえ、そうなんだ、いいね!ってそういうやつですよ。壁一枚、それだけあればどんな隣人がとなりに住んでいようと受け入れられる訳なんです。すっごくいい社会ですよね、これ。

 あ、皮肉でいってるんじゃないですよ。ほんとにそう思ってるんです。そら、ヴォルテールも言ってるじゃないですか。君がそれを言う権利は命を懸けて守るって。まあほんとは彼自身は言ってないらしいですけどね。どうでもいいじゃないですか、いい言葉なんだから。



 さて、なんの話なんだっけ?そうそう。僕達は二、三十年前に若者だった人たちを羨んでるって話でしたね。そうは言いましたけど、こう僕が語ってきた通り、羨んでる人ってそんなに町中を出歩いてる訳じゃないんです。じゃあ誰が羨むのか、と言いますと、出歩いていない若者が羨むんです。いや、これつまるところどう言うことかと言いますとね、なに、簡単なことです。同じ人が外では、自分の自由を頑張っていこう、っていうこのタテマエを守りながら、内に籠って蹲っては、なにか自分じゃないもののせいにできた時代を羨んでるという、それだけのことです。

 外出している間には、僕も君も頑張っているうぇーい、ふぁぼつけなきゃ、インスタバエ、とか表面上のコミュニケーションをとりながらも、裏ではコツコツ意識高ーく他人よりすこーしだけ先んじようと努力をしています。けれど帰りの電車のなかでふっ、と気がつくと、ああ僕たちってなんでこんなに疲れているんだろう、って思うということなのです。



 ところで今はもう平成も終わりじゃないですか。平成時代、何て言うのが一くくりになると、動もすると二十年前の人たちと今若者である人たちとが、おんなじ若者平成の人として一緒にされてしまうこともあるわけですね、これが案外。全く困ったことですが。

 そんな中で耳聡いというか、ちょっとひねくれたような人なんかは、ロストジェネレーションとか言われて憐れまれた人たちがいたのだという情報をどこかで拾ってくるわけですね。そんでね、そういう人たちと自分達とを比べてみると、あっれれ~おっかしいぞお、平成って十把一絡げにされちゃうけれど、僕らとは大分雰囲気が違うよお?なんてことに気づいてしまうわけなのです。なのですよ。

 まあ考えてみれば当然で、平成も明治や昭和ほどではなくても大正や寛政や文化文政年間とか、大化や安和や承久なんて時代よりは遥かに長いわけなので、本当は三十年が一くくりになっちゃうワケがないわけです(ま、くくっちゃうような人は相当なおっちょこちょいだと言う話で、実際はそんなにいないのかもしれないですけどね)。



 とにかくそこで彼らというか僕らは思うわけです。僕らはゆとりだなんだってさんざんバカにされてきたわけだけれど、親の脛をかじりお母さんのおっぱい吸い吸い(お父さんのおっぱいはあんまり吸えないんだ)、それでもなんだかんだ自分の足できちんとやって来たわけだ。都合の悪い部分も含めてあなたなんだよと。自分のことは自分でって。

 それなのに、あれ、この人たちはなんなんだろう。「失われた世代」だって?自分等の繁栄は先の時代の人たちに奪われて、暗黒の時代を生きていかされてるんだって?え、そんなこと言っちゃっていいの?僕らはこんなに頑張ってきたのに、とっくに失われた世界を生きてきたのに、こんなこと言って甘ったれてた世代があるの?そんな、ばかな......って、思うわけです。こんな甘ったれたことを言っていいなんてこと、誰も教えてくれなかったのに......って。


 つまりね、景気の数字は良くなってるみたいだけど(でも日本のお偉いさんが改竄や忖度やなんかをして、あんまり当てにはならないんだ)、今も二十年前も大して情勢は変わらない。むかし若者だった彼らは(まだ若者の部類かな?)、自分等の胸や懐が寂しいのを、暗黒の時代のせいにしてのうのうとしていた。

 しかして翻りまして僕らはどうか。この莫大な空虚は自分で抱え込まなきゃいけない。この胸を衝く、得体の知れない昏い澱のような閉塞感はというと、人のせいにできない。ヤリガイだかマキガイだかキチガイだかなんだか知らない極彩色のケーコートー?それともLEDライト?だかなんだかでよくわかんないうちに有耶無耶にされている。ワークライフのバランスとか、権利の向上とかなんとかで煙に巻かれて。

 なんだか、都合のいい話だなあ......。自分が若者の時はバブルの時代のせいにして、今は若者に自分で頑張れって言うのかあ......。そういうヒガイモーソーを考えるわけです。小便くさい帰りの電車に揺られながら。



 けれど考えるとはいっても僕らも暇じゃないんだから、ぼんやりとしか考えないわけで。まあ、いっか、ってタイムラインをスワイプして流すみたいに通りすぎてってるの。やりがいがどうとかは言いたくないけど、でもテレビも言ってるこんなに美しい国日本のタスキを、次の世代に繋いでかなきゃ、みたいな顔して、しこしこ意識を高めるわけです(高めるものは自意識か?)。自分のことはきちんと自分でやってね。

 自分はプロ社会人になるけど、できない人を見下したりもしない。ただ少しだけそういうかわいそうな人を見て甘い汁をちゅっ、って吸うことは許してね(山田詠美だったでしょうか)。ちょっと安心することくらいはいいでしょって。それで、そういう安心と引き換えにして、そんな人たちのためにもってことで、社会問題にまでアンテナ張って歩くわけ。プロの社会人はそういうところも隙がない。

 日夜、人よりすこおしだけ、意識を高く持って、人に見えないところでこっそり自分を磨くの。しこしこ、しこしこ。そんで町中では常識と良識を持つ。欺瞞じゃないのよ、この二面性は。仮面でもない。敢えていうなら仮面しかない。どちらの僕らも本物の僕らだ。本物であり、偽物の僕らだ。



 そんでね、それでも僕が言いたいのは、やっぱり今の人たちはロスジェネを懐かしく思わざるを得ないわけだということです。たとえばね、最近のアニメ、僕のような人はやっぱりこういう「オタク」みたいなものに興味を持っちゃうわけだけど、とにかくアニメ、硬派なやつはみんなエヴァの焼き直しじゃない?そういうのもたぶんロスジェネを懐かしがっているからで、それゆえ過去の記念碑をいくらやっても越えられない。越えられないで、いつまで経ってもぐずぐずしている。

 でも、今またエヴァをやろうとしたって、うまくいくワケがないのだ。なぜなら今の時代は次代だから。ロストされたジェネレーションを乗り越えた(と期待されている)、ロスされてない(とされている)ジェネレーションの時代だから。最後はよくわからないうちに、とにかく宇宙に飛び出して、大花火打ち上げて視聴者をだまくらかして終えるの。タテマエってキレイだね、けどタテマエもホンネでしょ?なーんてメッセージを残してお茶を濁すの。

 なんでも人のせいにして、昔も未来も僕らをいじめるって、そうやっていじけていてよかった世代。そんな、ありもしなかったロストジェネレーションを羨む僕らがいるのだ。

 失われし「失われし世代」。
 そういうのもロスジェネらしさだろう。

 オチませんけどね。

 そういうのも、ロスジェネらしさでしょうか。