「死にたい」という語りについての小片

 

 死にたいじゃなくて消し去りたい
 過去とそれを持つ自分の存在ごと



 「死にたい」と何度も語ったことのある人には、ふと「けれど『死にたい』んじゃないんだけどな」と考えることがあるだろう。たとえば、「死にたい」のではなく、自分の"悪い部分"を腑分けしたい。もしくはそれが帰属する私という存在が存在しているという事態を恐れて、それらを消し去ってしまいたいのだと。

 けれど、そういう迂遠な言い回しでなく「死にたい」と語る。それには理由もある。これはとても気持ちいいことだからだ。「死にたい」という語りには、すべてを切り捨てて、もうやーめた、と言ってしまうような清々しさがある。不快に思う対象を細やかに分析して同定するより遥かに手っ取り早い。そもそも、嫌いな自分を分析する、つまりはその葛藤に直面できるような体力も時間も落ち着きもないのだ。死にたい、という言葉に折り畳んでしまう他ない。この生暖かく薄暗い狂おしい気持ちすべてを。

 そういう意味で、死というのはとても分かりやすく、また威力のある記号だ。このような「死にたい」は、痒いところを効果的に引っ掻いてくれる。悪いところがあるとすれば、それはこの引っ掻き傷は深すぎて、肉を腐らせるところ。些細な傷が、そのはずだったものが、本当に「死にた」くさせてしまうところにあるだろう。