天才性についての不用意な試論

 今日の友人との議論の中で、処理能力を才能や天才の中に含めなかったのには理由がある。それは(理論上)論理で説明可能なものであり、時間さえかければ誰でも到達可能なものだからだ。

 天才(性)というものを、プリセット(ア・プリオリ)な知、その直感のうまさとして定義するが、処理能力にはその容量の多寡はあれど、質(=やり方)的には変わらないものだと考える。天才の(飛躍的な)「直観」に凡人が達する為にあるのが学び、論理による思考と実践であるとする私の考えとしては、飽くまで「誰にでもわかる」推論の積み重ねとしての論理、ひいてはその処理能というのは、「能力」、つまり「できる」を成すことの成否には関係するが、定義上「才能」ではないものである、としたい。

 ここで、才能の対概念として措定したいのが「適性」であり、それは論理によって到達する時間的及び資源的効率の良さを指す概念である。これには処理能の多寡は大いに関連する。

 しかし、「能力」は、知の本質(つまり「どう知るか」!)には関係しない量的な概念と考える。天才的で飛躍的な直観に頼らぬ平凡な直観【「平凡な直観」概念を認めるとするならば、論理はこの飛躍、走性つまり選好を必要とする[どちらかを「選ぶ」という傾向性(=法則性)がなければ、判断も計算も決してできない]。それゆえ、すべての人はこの飛躍を大なり小なり持っていることになるので、程度は違えどみな「天才的」であると言えよう】によって「できる」に到達する力が論理である(そうするならば天才とは「できる」ことではなく、「できるようになる仕方」の特殊なさまを指す概念ということにもなる!)ので、処理能力の多さは、私の定義に従うならば、天才のものではないのである。むしろ天才に凡人が追いつくために有用な適性を示すに足るような「能力」、つまりは天才の反対の概念にこそ関与する指標だということになる。

 もちろん、「天才」を「できる」ことに極言してしまえば、このような天才も秀才も等しく「天才」「才能がある」ということになるとは思う。しかし、後者のようなものを、理解できぬものではなく我々と地続きのものとして囲い込みたくなる心性があるからこそ、人はそれを「秀才」とか「努力の人」とか呼びたくなるのではないか。この言葉遊びは、そこまでおかしな弁別を導き出してはいまい。

 ……ただこうなると、また「能力」という概念を捉えるのがやや難しくなってもくるかもしれない。天才や才能を持つ人のことについて、何かを上手くする「能力を持っている」と言いたくもなるからだ。

 ……いやしかしそんなことはない。天才とそうでないものとを分けるのは偏にその「でき方」が、ア・プリオリな知、直観の鋭さによるものか論理によるものかという違いであるから。「能力」が取沙汰するのは、その知のあり方、できるようになるその仕方ではなく、できるという結果、その事実そのものの原因となる人間の持つ力についての、大掴みな一群に過ぎない。だから「能力」概念が天才にも平凡な才能にも跨る概念だということは、天才性をめぐる議論をいっそう複雑にすることがない。これは安心すべき概念だ。

 また、こうも言えるかもしれない。ある能力を持つことが「できる」ということ自体を「才能がある」「天才的だ」と呼ぶのだと。その場合はこうすればよいか。天才と才能とを弁別してしまえば。才能がある、というのは天才的であるのと適性があるのとの二通りの仕方がある。そのうち直観的に優れているのを天才と、論理実証反省実践により達成へと近づいてゆく仕方に優れるのを適性があるといえば良い。