自分の感情で手一杯なのだが

 自らの感情、即ち精神の基盤、肉体も情態性も含めた根本気分。

 これが内側―真の外界だとすると、〈子ども〉の問い(永井均)は、外側と内側の境界面上に生じる問いだ(その他の哲学的問い(ないしその他すべての学問的・実生活的問い)は外側―形式的内界の問いになる)。子どもの持つ、世界と直に触れている感覚。この境界面には、自己というものが宙吊りとなって存在してしまっている神秘がある。自らが世界の虚ろな焦点であるかのように感覚し、自らこそが世界と正対しているという素朴な直観。天使の眼たる己の直観。純粋に形而上学的な問い。

 だがそれは錯覚だと思う。始まりは神秘ではなく肉である。子どもは自らの内側―外界を感じ取ることが出来ないから、Genetisch に間違う。そうではなくて自己の肉体的基盤が先にある。意識が芽生える前に、我々は既に肉である。むしろ、「物心」つくようになると、そのことを忘れてここに初めて自己が生まれたように欺瞞されるのだ。これまで散々肉に埋もれて、貧世界的に生きてきた己を忘れ去るのだ。

 ここに立ち戻るためには、自己反省ができるようにならなければならない。大人となって、自己の肉体的存立基盤(そしてその煩わしさ!)が改めて問題にならなくては立ち返ることが出来ない。そうてなければ真の原点は見えてこないと思う。原始の問いは、むしろ先に進まねば得ることが出来ないというパラドクス!


 ただし、境界面こそが原始であり、自らの(肉体的)歴史を信じることがむしろ虚構に縋り付く危うさを孕む、とする立場ならまた理解の余地もある。「〈子ども〉の問い」と、「大人による〈赤ん坊〉の問い」。この立場の対立を如何様にして決着させるか、出発点を見定める上で避けることはできないように感じられる。