存在しない罪を許すことはできるか?

 基本的に僕がずっと考えてきたのは、自分を許すにはどうすればいいかということだけだ
 僕は許せない自分を妥協的に許してきた。存在することを許せないのに、それを実行しない自分に対して、後ろ暗さを感じながらもなし崩し的に僕は僕に存在することを許し続けてきた
 僕に僕の存在を許さないのは、ある種の原罪のためだ
 それを構成してきたのはことごとくみな現世的な嫌なことどもだが、それはもう僕の奥底に固着して今では立派な原罪だ。存在そのものが罪を含意する、本質的に罪業であるもの。僕にとってはそれが僕だ
 僕が僕を破壊し尽くしてしまえばそれは確かに雪がれるだろう。しかし僕にその手は取れない
 それは何か?……破壊されれば許されるだろう、その下心は罪を消してくれても許されることはないと僕は言う
 けどそれも本当のことではなくて、自己破壊というのにそもそもの無理があるのだ
 僕はいることから逃れられない
 僕はいま座っている。立ち上がって例えばどこかのビルの屋上から落ちることできっと本意は達成されるのだが、そのようにすることはうまくいかないだろう
 座っていることに安住できない、そのような座っていることに安住してしまうのだ。なぜ?
 許されない罪に苦しむということはない。許されたい罪に苦しんでいるのだ。「許されたいなら対価を差し出せ!」交換経済が心の深いところに巣食っている
 けれどそれでもまだ手落ちだ。明らかなのは、罪を雪ぐ機会に僕はいつでも遅れていて、結果としては生き続けているというそのことだけだ
 なぜ?それは遅れたから。遅れたから、乗り遅れたから、遅れ続けているから。しかしそれだけか?表れ出た現象はただそれだけで己を構成しはしないわけだろう?