電波女と青春男

 先行きもなく
 一夏のユートピア
 待ち受けるのは悲惨な人生で
 宇宙人だけが実在する街角は
 きれいではかなく
 切ないほどに



 悲恋であるし、依存先が一つしかないし、受け入れても受け入れなくても変わらないし、いずれもヒサンだし、彼女だけでなく、男の方もかなりヤバイ上、周囲の人物みな、すごくいたくてシュールな空気が流れている閉鎖的な空間に知らず知らず呼吸が浅くなってくるのを感じる。ラノベ的な誇張のはずなのに、それを窃視して嘲笑う現実が透けて見えていることのディストピア。隠り世の箱庭。だれもこのシュールを現実で洗う視点を持たないからか。その割に、たまに出てくる常識的な人物たちが(花沢や中島など)彼らの外にも現実の、奇矯ではない、本当に現実があると知らせてしまうからか。ギャグがギャグにならない。それなのに、非現実は実は本当に陥入している。宇宙人の実在。これは普通日常や決まりきった運命の打破をもたらすはずなのに、彼らにはやる気も何もない。先行き見えず、ストーリーは何も変わらない。精々認識が漸進的に横滑りしていく程度である。......しかし確かに楽しい日々。

 本物の非現実という希望は、それでもやはり視界をキラキラの粒子で彩るだけで、若者の生の歩みを崖下に向け、それ以上のことはなにもしてくれない虚しい希望だ。なにもしてくれない。非現実があるだけ、むしろこの世界がかりそめの安寧なのか本物のストーリーなのか区別がつかない。主人公は冷めている。どれが現実かは本当にきちんとわかっている。だからこれが余計に悲劇に見える。非現実と非常識と常識。非常識には、そのどちらの異界も見えているのに、どちらにも触れられず、交わることができない。彼らは普通にも特別にもなれず、不適合者というのが関の山で、すれ違っても決して、箱庭から出られない。真もエリオも流子も。

 それを承知で、しかし認識した振りをして(してない振りではない)、揺りかごはがらがらを回しながら坂道を下ってゆく。

 そんな予感。そんな世界。

 こんな虚構世界に、この国のある特定の若者は、残念なことに強く共感してしまうのだ。絶望的な夏の陽炎。虚しく退屈なアスファルトに、なにか鈴蘭みたいなすずしげのことが芽吹くことを。そんなことは起こらないと知っているが、期待しないわけでもなく、かといって本気にもしなくて、ただ怠惰な世界は残っている。

 劇中、設定上リアルな学校として描写されているのに、主要人物は奇矯な言葉遣いをしていて、しかもモブの人々は普通の言葉遣いをしている。だからこの作品世界は異常で、彼らの世界は、精神異常者の常識のアレゴリーとなってしまう。