区別、分離に関するポオズ

 哲学するのに必要なのは、住まっているかいないかではなく、住まっていないという前提の上で、粘っているかいないか、粘っていなくてはならないということだ。



 デカルト、区別というもの、裁断と非裁断の区別。

 区別は分離に結節してしまうのではないか、区別を区別のままに保つことは不可能なのではないかと。区別ならば分離となってしまうのではないかと。区別した認識は、分離ということを含意するのではないか。分離なき区別は定義矛盾ではないか。区別するとき分離が潜勢的に備わってしまうと思うのだが、どうか。胃と食道の区別と分離は、どう違うか。区別は認識における状態で、分離は属性というか、現実におけるもの。区別可能性があるとしたらそこに区別は既にあるが、分離可能性があるときそこに分離が生じているとは限らない?
 区別可能性とはなんだろうか。

 区別可能性 →  区別
         分離可能性 → 分離

 区別なき分離はあるだろうか?無差別な分断。分離するならばそこには区別があるだろうか?区別を越境した分離、手術、余白、糊しろ、余剰、尻切れトンボ。
 世界と精神との区別は分離とどのように異なるか?非世界としての精神は、区別されながらも分離されてはいない、というからには、抽象的な天使の眼のようなものではなくて、肉体に密接した精神の座というものが必要だった、という発想は極めてよく理解できる。しかし、まさにこのデカルト的発明たちに根を下ろした後発科学によって、松果腺という「ばかげた考え」は潰えてしまった。それでも両者の区別には、やはり肉体に密着した魂の座が要請されるはずであるから、脳科学のハードプロブレムは必然的に導入されざるを得ない、合一ゆえの区別なら、やはり座は必要だから。ではその区別された精神領域はどこ(、、)にあるのか?分離ではなく区別だとしたところで、結節点は要請される。胃と食道はファジーに連結し連接しているが、食道ではなく胃である部分は確かに存在するからこそ、胃の入り口、というのがあり得る。

 体系でないならば哲学は何を明らかにするのか。
 日々の小さな気づき?無謬でない体系に「妥当」も何もあるのだろうか?