言論活動について

 直観から細部へ渡ってゆく。細部から直観、全体を構成する。どちらでもよいと思うのだが、全体ないし細部のみで充足してしまうのは、前者の場合印象批評に成り下がるし、後者の場合は細かな演出ばかりに気をとられて作品としての完成を見失う。


 ぼくの批評はかなり印象論の嫌いがあり、多くの作品批評ブログや記事は、後者に汲汲してそれは本当に奏功しているか、というのに視点がないように思われる。


 結局、作品でひとつの統一を作らなくてはならない。統一の仕方にはバリエーションがある。たとえばひとつのメッセージとして完成するのは一つのスタンダードだ。渾沌という仕方で、ばらばらがひとつの作品として止揚されていると言う在り方でもよい。いずれにせよ、「渾沌」ないし「秩序」という統一的な枠組みは必要なのであって、これがない批評では、作品論として甲斐がない。批評だって負けず劣らず、阿呆の画廊であってはならない。細部を耽美称賛恍惚うっとりするのみではダメである。


 しかし、要素の分析、細部への依拠、根拠がない場合は、統一どころではない(統一されるべき内容が空虚なのだから)。印象批評が非難されるべきなのは、この事によってである。作品の空気に溺れたゆたうだけでも、やはりダメである。


 細部の卓越、それは確かに素晴らしい。しかしその素晴らしさは、作品として紐帯付けられているか?全体の空気がよい、それもまた美点であろう。しかしそれを産み出すのは何によっててあったか?


 必ずしもすべてが要素に還元されるのではない。要素と要素を繋ぐ「関係」という要素は、記述されづらい。だから、細部の分析で捨象されてしまう関係、つまり印象を語る必要がある。しかし、そこに明示的に見えるものはなんなのか、ということに視線を向けなければ、明示的に見えないものとの分節化もまた、果たされないのである。分析と統合はあらゆる批評における車輪の両輪である。


 学問活動、蒼然とした言葉で言えば、ロゴスを用いたすべての活動で同じである。哲学、テクストや過去の文献に汲汲、大いに結構。自然科学の個別応用ないし基礎研究、卓越した成果はそれ自体で素晴らしい。しかし、これらを自ら再構成して、私の中の社会を立ち上げなければ、世界の中の己の立ち位置を見失い、足元を掬われることになろう。


 しかしこれは夢見すぎであるか。意識高すぎ、もはや"系"でしかないだろうか。人の頭は限られているし、第一、こんなことは皆わかっているとしても、それでも気付いたら陥穽に嵌まっている。事後的に気づく。その様なものなのかもしれない。儘ならぬことである。

リズと青い鳥、作品評"以前"

 『響け!ユーフォニアム』の続編、且つスピンオフにあたる、山田尚子監督作品『リズと青い鳥』のレビュー的落書きである。


 私は二度鑑賞したが、根本のコンセプトにおける印象はその二回で少々変わった。初見においてはラストシーン、二人が笑顔でならび歩くシーンに、問題の未解決の薄ら寒い不安を感じたのだが、他のブログの感想記事(物語る亀さま、六月の開発局さま、山本寛オフィシャルブログさま、ナガの映画の果てまでさま、ソースに絡まるエスカルゴさま、Real Soundの特集記事、など)を参照し、見直してみたところ、二人の具体的な人間性への描写とそれらの複雑の解消に十分の解決が与えられていると思い直した。

 これはそれを示すのに準備するための、前提の提示のつもりである。


 私は本作品を、大きな出来事のドラマトゥルギーがあるわけではなく、微細なしぐさと会話によって微妙に進んで行く、私的な救済にのみ焦点がおかれた物語であると見る。具体的には何ら語らないが、大きな物語への準備たる現代青年的葛藤を描く作品として(は)、十分の資格を備えているものと考え、一定の評価をしている。

 ただし、作品全体としては、看過することのできない歪み、キャラ性とキャラクター(人間)性との水位の差がある。ゆえに、これを傑作であると評することには躊躇いを覚える。十分な良策佳作であり稀有な作品なのだが、根幹、土台、プロジェクトの趣旨にこの作品の価値を条件付きのものとしてしまう瑕疵があるということである。この、致命的な不適合によって初見時の私の印象が歪められてしまったと思われる。その欠陥とは「この作品が『響け!ユーフォニアム』であったこと」であるが、ここでは書かない。




 さて、「作品評"以前"」ということだが、ここでは表現の特徴(長)や構成など、また声優の演技や撮影、作画、動画、脚本、音響、bgm、演奏のクオリティ、間、その他あらゆる具体的な演出にはほとんど言及しない。これらに依拠した厳密な議論を行うことは、むしろ印象を損ねてしまう懸念があるゆえと、単に紐帯付けて示すことが面倒で、また私的な感想をさしあたって大事にしようと思うから。根拠と出典を示せないことで説得力が減ずることは承知しているのだが。


 長い前置きであったが、本編は以下である。ほとんど元書いたもののままである。なお、原作小説は未読、TVアニメシリーズも、二回視聴終了時点で一切鑑賞したことがないことを付記しておく。


****************************************************

 みぞれの心情の整理は。
 希美を愛するのだが、彼女からの愛は与えられない。それが意図的かそうでないか、確信する材料を持たないから(希美の独白は徹底して避けられ、その真意は終盤近くまで視聴者にも明示されない)。

 みぞれは希美の一挙手一投足に一喜一憂する。
かなり、素直で、何が起ころうと彼女の中の希美、なにもない私を誘ってくれてなにかを与えてくれた希美への態度は変わらない。ただ、相手からの愛(視線)が前提となるから、過剰に希美の様子をうかがわざるを得なかった。

 終盤、童話の展開に託つけて二人の関係に新たな物語を読み込むことに成功し、彼女は自立する。相手から与えられないのなら、こちらから与えればよいと気づいたから。そうすれば幸せである。



 希美。快活で誰からも好かれるフルートのエース。自分はなにかを持っていることが、仮初めのカリスマであることに薄々気づきながらも、それに甘える。みぞれの好意に応えることも、これと等しいところがあった。それが、みぞれの実力が自身のそれを追い越し始めたことに気づく。......自分に好意を寄せていた者が、今度は自立してしまうかもしれない。自分に何かを求めて近寄ってきたものが、自足してしまったら離れていってしまう。

 現状より取り巻きが減る、この事自体は大したことではない。しかし、みぞれだけは別格だった。みぞれからの承認は、希美の心の深いところで、本人も明示的に気づかぬうちに、彼女という人格を強く支える不可欠のものになっていた。みぞれが他の取り巻きとは違う空気、隅に隠れる月のような空気を纏うことも、その隠れたカリスマを希美に突き付けた。希美はみぞれを惹き付けながら、同時にカリスマに魅せられてもいる。むしろ冷静に見ると、主客は逆転しているのだ。そしてこの実力ある特別な「取り巻き」が消えることは、逆説的に己になにもないことを突き付ける。自らのカリスマの虚飾を暴く。だから希美は決して受け入れられない。実力ある、みぞれ、からの好意は諸刃である。これだけの本物の才能を持った人が己を好いてくれると言うことは、私もそういう人に認められるようなことが何かあると言うことになる。



 しかし、同時にみぞれの実力は目の上のたんこぶだ。実力があるから、自足し始めてしまったら私のものになってくれることはなくなってしまう。他の何者かに、自らの空虚を埋めて貰うことを望む人は、空虚がなくなったら自立してしまう。

 これを、自らに準えて、恐れているのだ。みぞれは私の何が好きなの?こんななにもない私の?実力や、華やかさが、部内での彼女のアイデンティティを形成していた。すべての人間は彼女にこれを求めるのだと、自分では思い込んでいる。なにもない自分を愛してくれるはずはない。

 だから、みぞれが自分を求めてきてくれるのも、他のよくある取り巻きの一人のように、ただ少しだけ大人しめの、取り巻きであるから(トートロジーだが)にすぎないと思っている。

 地味だからこそ、太陽のような私に憧れているのだと思っている。だから、私の太陽が、実は地に蠢く有象無象のようなレベルの低いものだと知ったとき、それよりも遥かに優れたものを自分が持っていることにみぞれが気付いてしまったとき、彼女は私から離れていってしまう。



 見限るなどといって、これまで騙していたことを激しく恨むのならばまだよい。まだ、同じ土俵で戦えている、遥か価値を持つ人間が私のことを眼中に入れてくれていると酔えるから(だから、彼女は敢えてみぞれにつれなくするのだ)。

 しかし、みぞれが離れるとしたらたぶんそういう仕方ではない。まるで地上で暮らしたかぐや姫が羽衣を着せられすべて忘れて月へ自然の摂理として浮かび上がって行くように(ああなにか卓越したイメージがあったはずなのだ!月、吸血鬼、紅、本性を思い出したら、追いすがる男のことなど本当に認識すらしていないかのように自然のうちに去ろうとする女......、楽しい思い出を育むが、次第にその時の明るい彼女でいる時間は短くなっていく......)、みぞれは希美のことを、まるで彼女なんて初めからいなかったかのように、自足し始める。

 だから、これを恐れて、希美はみぞれ(私が本当になりたかったもの)に近づくことを避ける。近付いてしまったら、私が捨てられる運命だから。



 彼女からの愛からも身をかわす。実力を持つものが、卑下して身を落として私を憧れることが、私を求めることが、どこまでも深い欺瞞に感じる、甚だ不快に感じてしまう、たとえみぞれがそれに無自覚であると分かっていても(これもみぞれと同じく、確信が持てないのだ)。

 なぜそれだけのものがありながら、それだけの才覚を持ちながら、私なんかを求めてくるのか?(もしかして嫌味なのか?)この滑稽な光景を、物のわかった誰かに見られたら、粋がっている私がばれてしまう、露呈してしまう。この状態にあることで自分が笑われてしまうリスクを希美は十分知っている。

 だから、彼女はみぞれが自分についてくることに耐えきれない。「ついてくるな!どこかへいってしまえ!」



 みぞれは己れを際立たせる黄金なのだ。精々黄鉄鉱止まりの私が劣るのをすら際立たせてしまう。

 希美は自らが主人だと錯覚している小判鮫には、絶対になりたくないのだ。決して、これだけには、なるのに堪えることが出来ないのだ。自分がしてきたことを、他人からされることは心底受け入れられない。なぜなら自分は自足していると信じたいから。
 だから他人の羨望の的であることを望んだ。誰かに与えられ誰かを憧れることは、自分がなにも持っていないことを認めることをそのまま意味してしまうから。



 しかし希美はみぞれを自ら手放すことすらできない。彼女はみぞれの才能に心底惚れ込んでいるのだ。誰よりも彼女の力を知っている。誰より認めているのだ。だから、彼女からの羨望の眼差しは、何よりも強く己れの価値を証明してくれるのだ。

 故に、希美は彼女をきっぱりと拒絶することができない。これが恐ろしい対価を支払わなければならなくなる、禁断の蜜なのだとしても。みぞれには希美がすべてだった。しかし希美にとってもまた、この時点ではみぞれが世界の承認のすべてなのだ。



 だから、彼女はみぞれを付かず離れずのところで飼い殺しにしてしまう。彼女といるのはリスクが高すぎる。己れの虚構がばれてしまう。むりしてみぞれに対等であると頑張っていることがばれてしまう(新山先生はこれをはっきり見抜くだろう。だから、希美は彼女に牽制をし、そしてはっきりと、敗れてしまったのだ。音大受験なんて器じゃないことを暗に示されることによって)。
 しかし希美はみぞれの愛を、きっぱりと断ることも出来ない。そうするにはあまりに蜜が甘すぎる。





 きっと彼女がここで区切りをつけられていなかったなら、みぞれを凌ぐ才能が現れたとき、そしてその人が希美に見向きもしなかった時、彼女はみぞれを手酷い仕方で遠ざけるだろう。かの人物が希美に一瞥も呉れないことは、ほぼ間違いない。彼女もそう予感していよう。希美はみぞれが自分に引き付けられたのは必然と言う物語を信じたがってはいるが、本当は偶然、たまたま自分がみぞれに優しくしたからであることを心の底では無自覚のうちに熟知しているから。だから、彼女にとってこの二人の関係は、本当にぎりぎりの危ないバランスのもとにあるもの、終末を欺瞞する楽園だったのだ。

 彼女はみぞれを激しく拒絶するだろう。かの人に劣るみぞれが思慕するのは、そのみぞれにすら敵わない憐れであまりに惨めな私なのだから。彼女の能力への希求は止まらなくなってしまうのだ。みぞれ程度の才能からの愛になど、もはやしがみつくことは許されない。みぞれを激しく憎悪して、そして才能に加え、みぞれを形代に攻撃してしまうそんな己れのくだらなさまでも救い様なく感じてしまう。あとは、引きこもりでも自堕落な生活でも援交でもリスカでも自殺でもなんでもするがいい。

 もしくはみぞれの才能をひたすら妄信的に応援し続けるだろうか。みぞれも己れも心中するかのように、二人だけの楽園にとじ込もってしまうだろうか。そうであっても、みぞれが夢から覚めて、希美に引導を渡して、希美は、上の通りである。
 ......まあ、実のところ希美はそこまでみぞれに依存してはいなかったと思うけどね。精々みぞれを見限って、心地よい小バエたちとの戯れに遊興することで満足しようとできる人だと思う。しかしいずれにしろ、精神の危機から脱することはできず、いつまでも成熟できない自分をもて余すだろう。



 熱くなってしまった。なんにせよ、希美はみぞれが唯一の命綱である。みぞれが自分に騙されてくれていることが、リスクと表裏一体で己れを支える価値のすべて。

 しかしみぞれは希美のそんな打算とは全く違う世界で生きているのだ。みぞれはただ希美個人のすべてが欲しかった。希美からの愛だけが、彼女の望むものだった。彼女に、私だけを見ていて欲しかったのだ(パートの女の子達に並ぶ、取り巻きの一人などではなく)。

 普段から彼女はきちんと私のことを気にかけてくれている。個人的な友愛を結んでいる。私だけを見ている、私は彼女にとっての特別。なのに、私が見ようとすると、彼女はいつも視線を返してくれない。私の見ていないときにはいつも私を見ているのに、私から見つめる時には決して、彼女は私を見つめ返してはくれない。なぜ?みぞれの単純な心は揺れ動く。

 しかし、希美の打算と諦めと悔しさと、どろどろとした感情を想像することは出来ない。彼女はどこまでもピュアなのである。どこまでも素直で、希美に翻弄されることしか出来ない。とはいえ希美は翻弄してやろうと思っているのではない。希美もみぞれから逃れられないのだ。


****************************************************

 ......と言うのが、部内の二人の立ち位置と冒頭五分のカットから、最終的には鮮明に読み取られるべき、二人の関係性の持ち札である。だから、まだ作品論には入ってないというのだ。描写から常識的に読み取れる属性を記述しただけである。念のための注意ではあるが、この二人の(些か歪んだ)二人の愛の関係が恋愛であるかどうかは確定的ではない。そこまで確実に図り知るまでの情報は与えられていない。それは慎重に忌避されている、余白を意図的に作ろうとしているように見える。差し当たりは、人間的な複雑とすれ違いが物語の前提になっている、と言う確認だけ。


 これを、映画のなかでどのように昇華していくか、と言うところにおいて初めて、作品論と巧拙が語られるのだが、今はそこまで踏み込んで語る体力はないので一先ず措きましょう。

否定的殴り書き(よつばと!14巻他作品全体に関して)

 新刊が出たのだが、読めば読むほどこれが幸せなディストピアに見えてくる。幸せのパッケージとして現代にどんどん絡め取られてゆく気がする。

 クレープのホイップクリームのような甘い夢想に溺れて、静かに、変わらず終わらぬ、成長すらもなく、ただ大人たちが称賛する驚きと発見だけがあって。これは即ち甘いユートピアと言う、畳語である。


 そもそも物語開始時におけるよつばの到来とは、誰にとっても非日常の陥入であった。しかしこれが日常へと着地してゆくにつれて、物語は不気味さを帯びてゆく。

 よつばがビュッフェで感じた幸せの飽和への、薄ら寒い根元的な不安は、この終わらない日常の真の恐ろしさを内部構造から突き崩してゆく端緒となり得るかに見えたが、また即座に子供の素晴らしさを謳うメッセージに回収され行く。そんなことでは小揺るぎもしないのが、真白のクリームでできた牙城。
 逃げ場がないのではあるが、しかし逃げることなどナンセンスである。とはいえこれは全く理想郷などではない。新篇反逆の物語と見事な相似形を成す完璧な世界。外界なき偽りの楽園と、使命を忘れた仮初めの天国。
 これは子供を育てる、という使命を十二分に果たしているとも思われよう。しかし、それはこの場合もはや世界を維持する自動人形の決まりごとに堕しており、本物の日常へと接続したはずの作品は現実の育児を忘れて夢をたゆたい繰り返すだけである。

 ......よつばが出てこない時、よつばと子供とが出会われる互いの真剣の時。そのたった二時のみが、彼らの世界を社会へと接続する道である。正常な世界へのわずかな縁である。彼らの連関の全体は恐ろしい。白く散光する甘いメレンゲ。それは私を窒息させる。




 今となって語るは詮無きことだが、思い返してみれば確かに11, 12巻辺りからきな臭い空気は漂ってきていたのだ。画面が著しく整ってくると同時に、作品と子供を取り巻く空気が変化するのを。それが意味することをよく知らないままに感じ取っていた。
 些末なことだが、長期間刊行が空いたためか、切れ長の目をしたキャラクター類型の作画が大きく変わっていて、同一性を保てなくなり始めている。


 この漫画に出てくる大人は一切の苦悩をしない。見せない。それはふたばに見せないという作品論的な次元で解決可能なものかもしれない。
 しかし、その割りには、あまりにも磐石過ぎるのだ。あまりに子供に人生を捧げていて(本当はそんなことないのだろうが)、彼らは先駆的決意を彼女に既に託してしまったとでも言うのか。

 そんな中にあって、調和の破壊は突如訪れる(予兆はあった。しかしここまであからさまな暴力性を帯びて登場させるとは、誰も思わなかったのではないだろうか)。
 表情を持たぬ顔で通りすぎようとする、東京の改札のおじさん。彼は異様に生々しく、浮いている。最大限マイルドに描かれたそれですら、これまで戯画的に描かれていた日常人の情けなくもほほえましい姿からは激しく乖離して、欺瞞の欠片もなくただ苛烈だ。
 東京と言う世界の恐ろしい賑やかさと内部に秘められた破裂寸前の、釘の詰まった風船玉のような澱んだ癇癪。この生々しい本物の現実が垣間見えてしまったことによりよつばは空転する。
 この14巻においてはそれ以前にも、ステレオタイプにおもねってしまったような、"らしい"子供のぎこちない反応がそれまでになく何ヵ所にも披瀝されるのだが。
 それでもコミカルなモブ達と街の人々の(少なくとも)見せ掛け(以上であることは確かである)の陽気さはそれを過剰に取り繕うかのようで、それまでの流暢さを失ってしまった彼女のごっこ遊びをしかし全力で、飽くまで自然を装って彌縫しにかかる。
 これは見事にこの世界の外側を隠蔽することに一先ずは成功する。しかし本来は寧ろ彼のおじさんの方こそが人間的人間であるはずなのだ。彼の登場は幻想の国の自己矛盾の亀裂から上がった悲鳴なのか。

 彼の生命、生命ゆえの疎外と解離と頽落という真実をば、しかしこの作品の全ての意図的な力動は巧妙に覆い隠そうとする。すべては子供のため。すべては子供のため。




 物語は単純だ。よつばが世界に驚く。大人たちはそれを助け、またより大きな驚きを見せようとする。しかしそれが観衆を意識するがゆえに躍り手の自由が逆に際立っていた初期と比べ、巻を重ねるにつれ第四の壁はリアルな作画によって取り払われてゆき、私たちの日常に接続する。
 構成は巧みになり、細密さも上昇して、これこそが私たちの生きうる日常だと主張する。だがそれを見つめる眼差しが人々にマリオネットの糸を絡ませた。作品は時間をかけすぎたのだ。
 もはやよつばは成長しない。成長することを許されない。成長できない。無垢な喜びを維持しすぎてしまったから、演劇するのには無理が出ている。作品世界は綻びを呈している。すでに悲鳴をあげているのだ、窒息しそうなこの空気に、現実と接続するはずのことを無理矢理塞き止めている誤魔化しに。

 作者ですら、いやむしろ彼こそが、そうであるか。新作そして"名作になる"につれ刊行ペースが極端に落ちたことが、その軋みを象徴すると考えるのはきっと邪推であるのだろう。


 それでも彼らの世界はやはり飽くまで自然に営まれているらしい。そこでは誰もが子供を想い、子供を中心に世界は回る。少なくとも、そう見える。それは未だに、あり得る日常そのもの。
 しかしこれの視点は誰なのか。これを映して提供してくる窃視者は誰なのか。いい加減に彼らを写すカメラの欺瞞が露呈してくる。観測者なき記述は存在しないから。この作品を取り巻く空気は徐々に、よつば自身の頸を以って、真綿のように括れ殺してしまうのではないか。

方針

 当ブログは私が個人的に書き溜めたものから、公開してみようかと思った端書きを投稿するものです。


・ジャンルを特定しません。主題を明示しない場合もあるかもしれません。

・純粋にブログ向けに書いた記事は、この記事を除いて生まれないことと思われます。

・引用は少ないと思います。厳密な議論ではなく直観/感に基づく私的な文章です。

不定期更新。ご訪問いただけるような奇特な方におかれましては、どうか気長にお待ちください。