真面目∧チラシの裏

雑感からの抜粋

文学性、傑作?

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 山田尚子や傘木希美らが語るように「物語はハッピーエンドがいい」



 ......果たしてこれは、許されるのだろうか。それとも文学研究者や文学者が語るように、願いは成就してしまったらそれは甘く、文学ではない。夢は破れて現実へと帰ることが求められるのか。私見では、このオタク的ユートピア的心性と文学とは、両立できると思う。なぜなら、オタク作品らはその作品内においては、そもそも夢など述べてないから。

 言葉の綾である。オタク系の作品群に夢がないということでは全くない。ストーリーではなくその虚構世界そのものが夢だと言うのである。それが破れるという現象とは、作品が完結することである。そこまで言わなくてもよい。単に、尺が終わって物語が閉じさえすれば良いのである。この機構によって、夢の破れは既に、原理的に担保されてしまう。必ず我々は、作品から覚めて現実へ帰る。この事が、メタ的ではあるが、文学的な「覚め」を保証する原理的な装置である(その意味ではあらゆる娯楽、推理小説、SFらも!)。

 娯楽性が強ければ強いほど、このような作品の終わり、虚構性の提示はより強く虚無感や喪失感を与える。娯楽らは逆に、夢の閾値、つまり文学性を備えるハードルはむしろ低いのである。



 いわゆる純文学やリアリズム的なそれは、これに反して、卓越しなければ面白くない。娯楽性が生まれない。無味乾燥な有職故実ルポルタージュにしかならなくなるだろう?くそつまらないようなだらだら文字群が閉じたところで、それがどうした、と言う他ない。だから、作品の中身において、夢を説得力もて作り出し、おのが意志でそれを破壊しなければならないのだ。せっかく作った夢の楼閣を。だから文学には自爆装置が必要となる。

 その意味では、娯楽作品などより作品への道程が長いのだ。それら下らぬ数々の気取ったナンセンスや快楽へコミットしない記録の中からごく稀に、蜻蛉のような素晴らしいものが生まれたり生まれなかったりするのだが。

 ......勿論、文字を読むこと事態が既にして娯楽である、ということが全ての文字文化の娯楽の根元なのではあるが。濫造されるようになった現代では、古代の時間的陶冶の代わりに、審美的な議論による陶冶が必要とされるのだ。

 こう考えると、近年のオタク系サブカルチャーの作品群に、世界観や設定を異様に凝りまくり、内実の人物たちは段取り芝居のようになる類型が多いのも自然なことだと了解できよう。夢の水位そのものを、現実からはるかに逸脱しようとするのである。この風土のなかで生まれた、キャラ、というのも、人間性そのものを、夢のうちに含めてしまおうと言う強かな戦略のひとつである。そうすることで、夢の世界をより強固で自給自足経済が可能になるようなものにするのだ。

 その意味では、今敏の作品などは、作品内部にまで文学性を持ち込んでいる分だけ真面目であるが、むしろ過剰な文学性なのであるような気がしないでもない。つまり、文学的有意義さを意識しすぎだと思う。逆に「リズと青い鳥」などは、夢を(商業至上娯楽的作品にしては)極力排した、リアリズムを感じさせる作り方で、芸術映画や純文学と呼ばれる作品群などに近いような作り方をしているのだ。ただし、リズにおいても、まだ作品そのものが夢であるので、そこまで破綻的な自爆装置を作品内に設置しておく必要はないと言うのである。



 議論を戻そう。これら、表現されたものが、作品として立ったあとは、内容の巧拙にのみ依るのである。故にこちらは寧ろ娯楽が不利である。快楽を優先した作品は、巧みさを質(しち)に入れてしまう場合が多いから。多産多死と言うわけだ。

 純文学や詩は、作品になりがたいがそこから名作への(相対的な)閾値は低い。娯楽の類いに属するものは、より多くが作品として認められ得るがそこから名作へは遥かに長い道のりである。言うまでもないことだが、作品未満の庭を抜けた純文学や娯楽を主眼においた作品らが、たとえ作品の館へと入ることを許されたとしても、そこに待つのはいずれにしても其々途轍もなく広すぎる伽藍である。その広い館だが、純文学の館の方が、後者の作品群の入る建物と比較してやや小さいというのである。



 実写映画とアニメ映画との関係とかも、きっとこのアナロジーが効くだろう。両者、傑作への道のり(門をくぐり庭を抜けてから、伽藍を進んで本尊へと たどり着くまで)はつまり、とんとんなのであるが、しかし娯楽やアニメは劣る、門戸が広いから、そういう理由で傑作すらも市民権を得られないような場合があるだろう。......当然ながら、この事実の指摘は、実際に傑作が存在するかどうかを保証するものでは全く無いが。ここからは、どれだけ公平な作品評価ができるかと言う話だ。

 どんな人間にもバイアスはある。環境や、ジャンルそのものの低俗低劣さから、傑作がひとつとして生まれない土壌も、確かにあるように感じる。娯楽には傑作があるが、この数やそれが生まれる確率は低いだろうと言うことを直感してもいる。
 
 ......ただしアニメは、本当に不当に評価され過ぎているところがあるような気がする。これは単純接触効果での贔屓の引き倒し、と言うことではあるまい。それでも古典文学を凌ぐほどの作品があるわけではないが、少なくとも現代の視聴覚メディアにおいては、傑作の類いのアニメより、よい実写映画などの方が、その評価や印象より遥かに少ないと思う。ジャンル全体の質は基礎体力、つまりある程度の傾向を示すが、全ての個を説明するわけでもないのだ。

 これに加えて、評価されるべき人物の性格のあるべき姿、と言うの、つまり何を撮りたいか、と言う心性が既に、道徳的な良し悪しとして検閲されてしまっている気もある。作品外の「正義」は文化的に規定されていて、よそのジャンル、よその社会、よそのコミュニティ・クラスタやよそのお国の大事な価値観が、別の価値観で図られることによる無理解が発生するのだ。全くカテゴリミステイクも良いところだが、避け得ぬことなのだろう。丁度、半世紀前には(動もすると現在も、かもしれないか?)、「〈黒人〉のジャズ」は〈白人〉に"Noisy!!!"と嫌われたように。



 だから、この問題はとても、難しいのだ。

 笑

雑記①

 優しい人は、規範から逸した感情的衝動行動―狂気―を、理解できるつもりでいる。事実そのような行動を示しているが、本当のところは、それを理解することを拒否しているのではないか。ある時は我とも気付かないうちに蔑みバカにしていることによって、またある時は無限の肯定で包み込んでしまうことによって。
 なぜなら理解したとたん、これまで保ち形作ってきたかの生の形は、その狂気と区別がつかなくなり、むしろ染まりきってしまうからである。気づく頃には、彼と己れとの分節が溶けてしまっているのである。まあ、むしろ気付くことはできないのだが。だから人々は、理解の手前でひらりと引き返してきてしまう。
 例えば共感性羞恥、という言葉があるが、それは共感などでは断じてない、と思う。これは自己の実存を保存するための必死の防衛である。断固とした拒絶の姿勢を、自己の客観化が可能な文脈(即ち他者の失敗を見ること)において、羞恥という仕方で示す行為である。
 身をよじるようにして彼ら私らがそれを拒否するのは、提示された表象を羞恥によって異化することなのである。己れをそのものと明らかに異なる主体として確保しようとする緊急的避難行動である。そしてそれは即座に、理解の拒否ということであるのだ。




 なぜ「甘え」はいけないのか?
 論理的な説明は成されておらず、しかしみな一様に了解する命題「それは甘えている!」の含意。この非難を理不尽だと直感するものはいまい。
 私もそれを共有するものであるが、しかしニヒルな他人の説得において、これを持ち出して激怒することはできない。彼らの土俵で戦わなければならないと思うのは私のばか正直か。
 これ、甘えへの断罪が、共感の底、共通理解の最低ライン、世界の関節、であるか。
 これが抜けていることが、宮台や私の知人が指摘しないし怒ったものか。




 エレキ、ロックは負の衝動性の発露としてのエモーション・ミュージックだから、「エモい」という言葉がよりその深刻な意味合いで使われた。言葉にならない、理性に規定されることができない類いの、甘えのような身を捩る苦しみをその音にのせて大気を乱暴に振動させ、肌でそのうねりを感じることで何時しか存在の基底からグルーヴが発生するのだ。
 クラシックにおいて、それは反対に理性の発露として、地をゆっくり揺れ動かすかのような鈍重さとスケールの大きさによって表象される。我々の精神の根底に横たわるもの(もしくは天上の何物か)が、やはり音楽という形式をメディアとして具現化される。崇高だったり情念だったり様々だが、こちらは短絡の極致であるロックとは反対に、一見迂遠だからこそ直接我々の心的真実にアクセスする。
 アプローチは正反対で、それによって呼び覚まされる卓越の質は異なるが、色違いのドラクエモンスターのように(喩えが安い)、その本質においては同一のものを揺り動かすということだ。




  私の話さんと欲する言葉は
  私の口を衝いて来ず
  私のもっとも望む声を
  私の喉は作り出さない
  私の求める文体の
  思想のかたちはペン先に滲まず
  真実身を浸す音楽は
  私のからだから溢れ出さない
  私に輝くひとの生を
  私は把測することすら叶わず
  私の見せたい私自身
  私の相手には伝わらぬ
  人は私に私以外の何者かを見る


 ある人の意図した意味内容は決してそのように表象されることはないということだ。だから人は他人の顔色を窺うし、他人の文体を羨み、自分の文体を否定し、絶望する。
 詩人や作家は言葉に裏切られる、とはその事だと思う。はて、誰もが多かれ少なかれそうかもしれぬ。人によっては、それがすこおし敏感なのかも知れない。
 ただそれだけのことも知らない。

 もしくは、言葉に自分が従えばそれでよいのかもしれぬ。多くの成熟した大人らには、表現したい自分というのを、自己実現の極致などとしてではなく、言葉によってようやく知られるのかもしれない。丁度メルロ=ポンティの語るように、言語化し説明することによってはじめて思想は完成する。いやむしろ逆で、語る言葉にしたがって思想は生まれてくる。
 順番を履き違えることも出来るが、そうすると、なかなか苦しいぞ。語る言葉に合わせて自身は彫琢される、というのが、身体的存在たる人間の宿命だ。しかし近代自我の弊害で、それが転倒してしまったのだ。身体や、言葉や、パロールやラングや、なんでもよいが何もかも、シニフィアンなくしてシニフィエなし。
 しかし意図がそこに乗るわけでもなく、原シニフィエとでも呼べるようなものしかそこには元来ないのだ。シニフィアンシニフィエではなく、それと原シニフィエとの弁証法でしかないのだ。身体現象なくして、自然な思想は生まれない。自意識は思想を妨げるものでしかない。
 考えても(、、、、)ご覧よ。思惟は音楽や野球やプレゼンや世間話の際に、くその役にも立たないどころかそいつを立ち止まらせて応答を滞らせるだけではないか。考え続けることは決断を鈍らせること。決断する人は、考えることをやめた人であるのだ。

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 ガバガバですが、差し当たりアップしてみました。恥ずかしくなったら消すかもしれません。既に恥ずかしいですかね。

リズと青い鳥覚え書き

 未整理の論点を一先ず纏めておく。
 現在素晴らしい論評やブログを幾つか発見している。また今後パンフレットや資料(いずれも未入手)を読み込むことで論点は増えるし、私には指摘しきることはできないだろう。二次文献や制作者側の情報を仕入れることによる弊害などもきちんと見つめながら収集と観賞を進めたいものである。


 しかしリズは難解な映画だ......。





 ・最後は、解決し切っていないのだ。しかも、それでよいのだ。だから、「ちょっと待ってて」「わたしも」
 ・顔を背けるモチーフについて。希美
 ・優子の心情の整理。彼女がみぞれの肩を持つのは?音楽室のシーンや準備室でのやり取りの時の彼女の立場の、はっきりとは不明であること。多分、彼女の立ち位置が、ユーフォとリズが混じってしまっているゆえにもっとも不成功だった
 ・互いに素の象徴の数々
 ・飛べない鳥の象徴の数々。キーウィ、茹で玉子。しかし悪いことばかりではない。茹で玉子は「(塩)味が付いてて美味しい」のだ
 ・前半の、ユーフォ意識してしまっていることのジレンマ不協和
 ・みぞれに執着していることのカムフラージュ
 ・希美はみぞれを見つめ続けて、しかしみぞれが見返したときに、目をそらしたり、微笑みかけたりする。気紛れな神として。廊下でのみぞれからの大好きのハグを拒否した理由は



 ・表徴に、意味は明確に付与されている。しかし、言語化することが極端に難しい
 ・夏紀は、やはりさすが、耳がよくなくても、さとい。初見にも分かるような脚本が為されていて巧みだ
 ・不協和は、お互いのあの転機までずっと深まって行くのだ。そこで、みぞれも希美も考えの転換が起こるのだが、希美は一筋縄ではいかない
みぞれは、大きく変わるのだが(よくも悪くも素直で一本気あるから)、希美は、ようやく自身の気持ちに整理がついたというだけなのだ。どの様にかは、不明なので読み解く必要
 ・童話パートは、もっと異空間にすべきだった。音が特に。リアリズムを付与してしまったことで劇空間と地続きになってしまい、自然なだけに不自然になってしまった。本田望結は悪くない。ユーフォ空間に入ってしまったから、本田望結は批判されてしまった。やはり、前半のファンサービス、ユーフォの文脈が邪魔である。本当に、二人とそれにまつわる重要な人物(夏紀、優子、梨々香、新山先生、パートの子ら、高坂麗奈......)だけの世界にすべき、というか、そうしたかったのだろうな(これが山田尚子の「愚痴」だろう)。モブにならないことで、象徴的な発言の説得力が強くなるメリットはあるが、別の物語を読み込むノイズが発生する。一長一短だ
 ・「わたしも嬉しい」「それに......」希美が、この自由曲を喜んだのはなぜか?
 ・女の子は首筋が命だ
 ・希美はやはり、きちんと言語化できない。なまじ、言語かするのが得意なばかりに。みぞれは、言語化できないことを素直に戸惑い、体で動かしてしまえる
 ・アンコールブラボー(六月の)は、確かに要らないなあ。あれは明確にちょんぼだ
 ・希美の役はやはり難しい。悪くはないのだが、ユーフォ成分が邪魔である
 ・これは所謂ハイアートではなく、クラシック的な価値観(吹奏楽曲という膾炙している文脈)が支配しているから、オタクにも受け入れられるのだろう
 ・つまるところ、彼女たちにとっての救いとは、何だったのであるか?どこまでは救われて、どこからはこれから時間をかけて良くなっていくことなのだろうか?




 登場人物たちの行動や台詞の意味、理由を語り合う時間。
 E.E. は、そもそもが失敗作だから、コンセプチュアルアート視を考えたわけだが、これは失敗作ではなく傑作の類いなので、その必要はなくいきなり作品論、意味論的な解釈に入れる。



 ・山場がないということは、確かに言える。というか、ないのは山場じゃなくて(それはオーボエソロと二人の正面対決で担保されてる)、序盤から中盤までの密度だ。ファンサービスと真面目にやりたいこととの塩梅がとれていない。だから、少々描写不足で、印象をしっかり残せぬままに転々と進んでいってしまった感は否めない
 ・希美はみぞれを無視していない。むしろ、意識していることを気取られたくなくて、無関心の振りをしているのだ。序盤は、それでもかなり無理なく、素朴だったが、みぞれの実力との背馳が浮き彫りになってくる中盤(音大受験のわたり?)になって、こじれる、というか、自覚と顕在化と行動化。みぞれは素直だけど引っ込み思案で、希美はクレバーだが子供で態度にすぐ表れる。ことばが巧みで解離できるから、なんとなく繕えて(アリバイ作りができて)、言葉とボディランゲージの背馳にみぞれは混乱する(六月の)
 ・細かな手脚の動きの意匠、視線や表情の変化、それらの象徴的意味と心情的(物語的)意味。脚、手遊び、腕(肩)、くるっとターン
 ・舞台面上の意味合い。かみしも、上下(じょうげ)の位置関係
 ・トポスの読解。学校、理科室、部室、教室......。また窓の位置などそれの構造も
 ・色彩。人物帰属や作品特有の象徴的意味合い
 ・希美のことばの逐一の読解。彼女のことばはずば抜けて多義的で難解だ。表情や身体表現と合わせて
 ・みぞれからの、自分の賛美に、下を向いた視界には拒絶するように身をよじる足の落ち着かない動きが写し出される
 ・新山先生と希美との会話シーン。決意するように足をトン、声色は変えずに、相手のことば遣いの底意をよく読み取り、動揺し、おとなしく引き下がる
 ・他愛ない希美みぞれの会話シーン、上→下、中盤、「はいはーい、わっかりましたー」
 ・音楽室での、役員会議。希美からみぞれへの内心の牽制の気持ち、台詞とことば遣いと場の空気
 ・大好きのハグの説明は、十分自然だったと思う。全然滔々と説明なんかしてない(六月の)
 ・新山先生、滝先生の指導の仕方があまりに舞台装置的で、生徒の事を考えてないというのは、そうだと思う(六月の)
 ・ギャグはともかく、キャラクターのユーフォ的キャラ性が、この作品を完全に邪魔している。具体的には、大人組、優子、前半のbgm、緑輝ら、フルートパートの子ら、タブルリードの会(この中から剣崎梨々香だけが単独で動く、という場合を除く)
 ・梨々香みたいなアニメキャラ的な子、案外いる。彼女はとてもうまい造形だと思う
 ・童話パートは、やはり評価が難しい。時間経過をおくための緩衝材になっている貢献は確かにあるのだが、これ自体の印象が限りなく薄い鑑賞体験になるのだ
 ・たなびくスカート、揺れる髪の毛
 ・風吹くこと、時間帯、転機、体の動かし方(希美、中学時代は実に素直にあの性格だったんだろうな。自我に目覚めちゃって、自己の矮小さに、これを隠してカリスマ張り倒した結果、とは邪推か?)
 ・ユーフォ本編の、部活やめる/復帰騒動との折り合いがつけづらい。みぞれの、希美への思慕や認識はどんなものなのか?やはり、断絶がある。これはユーフォではなく考えるべきだ
 ・希美の演技じみたしゃべり方は、カリスマの糊塗か、キャラ的なことば遣いか、精一杯の虚勢か、みぞれを負担に思うからか?僕は、虚勢だと思う、みぞれを一方的に重く思うのではなく(確かになんだか重いとは思ってるのだろうが)、自身もしっかり依存している。その他大勢の中から特権を持って現れてきてしまったみぞれ、彼女への特別視をカムフラージュするため。重いのかなあ?ここは、要検討
 ・本編の、希美退部・復帰騒動の整理が必要。難しい。どう連続させるか、それとも切り捨ててしまってよいか
 ・(六月の)みぞれのご機嫌を取らなければならないポジションだったか、希美は?
 ・あがた祭に誘って、みぞれが自分だけを見ててくれてることに明らかに希美はほっとしている。逆に、プールの時は、ぎょっとした表情を、即座に繕う。(六月の)
 ・教室での夏紀と希美。夏紀は別に地雷踏んでないと思う。希美はずっとみぞれの事を思案していて、夏紀は希美の求める情報をくれないから、やはりもやもやは晴れないまま。(六月の)
 ・本編主人公コンビの戯れを見た希美の、「あたし、ほんとに音大行きたいのかなぁ......」。優子は、みぞれの肩を持って、また嘗てのようにみぞれを振り回すのか、と言っている(ように見える。しかし優子のこの発言をそう取ると、あまりに本編に依拠しすぎで、しかもキャラ的にしか聞こえないから、とても解釈が難しい)。希美はどうか?なぜ、これをきっかけにして、虚飾を取り払って、友達に審判してもらおうかなと思ったのか?
 ・たくさんの鳥が飛び立ったのはjointしたことによるのでは?(六月の)jointなところ:曲の解釈の正しい反転、自己認識への決定的な変革。いまだdisjointなところ:自分がなにをすべきか知ったみぞれと、呆然としたままに留まる希美、
 ・(六月の)部活のために自分を殺してきたから希美は絶望したんじゃないでしょ。部活のため何て欠片も思ってない。そもそも、去年無理を言って再入部したのは自分で、そこはきちんと仁義を感じてる。部活の犠牲になったとは、感じてない。しかし、なぜ涙したか?才能と言うだけじゃなく、うまくいかないこと(要出典)ばかりで、正直にもなれなくて、気持ち悪い己れの、一入に感じられて、これが、あまりにも素晴らしいソロであること。とても、吹いてなどいられないし、私の音を混ぜることもできない。なぜ?綺麗だから、力不足。だけじゃない。なにか感情が噴き出して、吹けなくなってしまったのだ。それはどんな感情か?
 ・理科室での二人のやり取りの詳細な検討。はじめの皮肉っぽいことば、みぞれが、「希美が、私の全部なの」。決定的に、希美は拒否する。みぞれのことばをことごとく遮る。確かになげやりだ。もう、人の話を聞いてあげる余裕ある自分を演じられない。しかし、ことばは、見事に自分をことごとく裏切る(これは描写がないので僕の共感力だ)。なんだか、ことばが、希美の心を滑るのだ。相手のことばをしっかり拒絶する力は持つのだが、自分の心を正しく反映する力は持ってくれない。この事を苛立つ描写はないから、きっとこの事には言語的な整理とかついてないのだろう
 ・ヤマカンの「厭世感」「愚痴」は、表現手法への嫌悪と、物語のない内的救済への食傷と(これは僕は描くべき救済だと思うのでヤマカンには反対したい)、それから、ユーフォに轢かれてしまった山田尚子の愚痴。三番目の意味でなら、僕も彼女の嘆きを少し聞き取った気になっている



 救済には内的なものと外的なものとがあって、それの手段にも内的なものと外的なものとがある。どちらもそうだが、特に手段の方の内外は、程度問題である。具体に結び付かない心理的出来事はなく、心に何ら影響しない具体的な出来事、課題もないからだ。しかし、おおよそそのような分節軸を設けることは不自然ではないと思う。
 外―外は、普通の物語。具体的な問題(やそれに紐帯付けられた類いの心理的葛藤)が、具体的な事件や出来事によって解決する。ヤマカンが好きなやつだし、普通のもの。また、キャラ文化は、これの極致で、純度100%の外在である。
 内―外は、やはり、ちょっと捻ったような物語だが、所謂純文学に多い。自意識の問題である。それが、具体的な事件、人との関わりを通して、何らかの解決を見るもの。もちろん、解決しませんでした、でもいいのではあるが。聲の形はこれである。
 外―内は、伝説のTV版エヴァのようなあれである。大概、解決しないが。
 そして、内―内が、リズのような。徹頭徹尾、出来事というのが起こらず、解決というのも、明確に主題化されない。だから、結局何が起こったの?という感想を抱く(ヤマカンのような)人が出ることも宜なるかなではある。



 ・リズは、不仲があって、なんとなーくそれ、動機が微妙に変奏されて、気付いたら解決した風な感じで終わってる、ボーッと見ていたら多分こういう感想しか抱けないのだろう。私も初回はそれに近かった。みぞれを評価しつつ、希美が人間になりきれない、最後までキャラで残念だ、そう思っていた。それは反面当たっていて、人気者を演じる声はキャラ的な声にならざるを得なかった(、、、、、、、、、、、、、、、、、)、そういうアニメの現在のようなものが、希美にヴェールをかけてしまっていたから。アニメ文化(これがユーフォであること)のせいである。アニメ声と人気者声を、アニメ性を保ったまま人間にも架橋する、なんて絶対無理だから。みぞれ、夏紀、梨々香(、久美子、あとぎりぎり、麗奈)は、アニメ声を作る必要なかったから(キャラクター声ではあるが)、よかったのだ。キャラ的な人とそうでない人がいる。緑輝や葉月はキャラ、久美子や麗奈はそうでない人。みぞれは元々前者だったが、寡黙だったので後者に華麗に転身できた。問題は希美で、彼女はどちらかといえば後者寄り、という程度の中間的なキャラクターだった。それが、人気者属性をつけられることによって、キャラ的な色が濃くなってしまったのだ。しかし、リーダーシップは、人間性にもキャラにも属するキャラクターである。大変難しい。希美は、キャラ文化、ユーフォというコンテンツの抱える矛盾に轢き潰されてしまいそうなのである

 ・(亀)みぞれの愛の言葉を「知ってる」ですべて片付けることはできない。なぜなら、対面してみぞれのことばを聞くときには、身を捩って拒否するかのように希美の足はそわそわと落ち着かず動いていたから。大好きのハグの時には確かに微動だにしなかったが、それは、みぞれが突然こちらにしなだれてきたことに少し驚くのと、希美が(物理的に)支えを得たから。自分の居所がなくて体を動かすのだから、自分の体を支えて自分の体感覚を保証してくれる、触れられる具体物があったら動きは止まる。たとえその依存先が、自分を現在形で苛むものだとしても
 ・(亀)飛び立たせて「あげよう」と自分を殺して我慢する、というようなことではない。希美も自分がなんとかなろうと、もがいていたシーンだと思う
 ・希美が手を回し返した意味、みぞれのことばをどう聞いたか、「みぞれのオーボエが好き」とは何を意味するのか、そのあとの間では何が起こったか、なぜ笑ったか、笑うと同時に手がみぞれの背中に上がってくること、肩を掴んで確かな様子で(勇気づけるかのように)みぞれを引き離したこと「さて、帰らなきゃ、荷物とってくるね」この時には確かに、みぞれから離れたいという純度は下がっている気がする。そのあと一人で考える廊下、呆然とした表情、深呼吸
 ・希美の顔が隠れること。最後のシーン以外では、みぞれ(=視聴者の分身)もしくは画面に背を向ける形で、しかも不穏な空気を醸すように、目元は暗く。だがさいごだけは、希美はみぞれに向けて顔を向けている。画面に背を向けるが、決して暗く屈折した雰囲気ではない。それに、みぞれが見ているのだ(他のシーンでは他人に気取られないようにする、という風の演出である)
 ・ed一曲目短調は、すべての解決でないことの当惑の宙吊りを暗に示す上で必要だった、と三回目にて思い至った
 ・しかし結局、評価が変わらなかったのが、「この作品がユーフォであること」の瑕疵である



 ・上に立つため。希美は自身が特権的な一(いち)になり、みぞれが多の中の個となることで、主導権を握るのである。かごの中に閉じ込めておく、いつ戯れてもいいようにするのである、無自覚に。それが、鳥籠の中の青い鳥。「どうして私に籠のあけかたを教えたのですか......」
 ・希美は、無意識にパワーゲームで戦っている。発達不全である。しかし、みぞれは個として、人としての関係を望んでいた。次元が違ったから、噛み合わないのである。希美は、みぞれを一人の人として見られなかった。属性として。しかし、籠のあけかたを知る、その事で、みぞれの属性に依存することから離れることを知り、一人の人同士として付き合うことを、始められるようになったのである
 ・希美の、みぞれへの依存心は、そのようなパワーゲームと、ほか、どの様なものがあるのだろうか?前回の整理は、みぞれへの複雑、自己の保全だったが、そのような自己愛的手段的執着だけでなく、みぞれ自身への自体的執着もあったのではないか?





 全く未整理であり、また私には見つけられない論点もたくさんある。長い目で見て論じなければ、演出各論に終わってしまい、これの核心を析出させることは難しいと思われる。否定しきれぬ瑕疵はあるが、かなりの傑作の類いであろう。難解さには裏があるような気がしなくもないが......。鍵となる視点軸・概念、象徴の見落としか、もしくは致命的な欠陥か。視聴と分析と体系的整理を重ねて行きたい。

縄文土偶についての試し書き

 縄文土偶は、宗左近の断片的抽象詩としての性格に加えて、三善晃の原初への意志、殊にセクションにぶつ切りにして行く異色の作曲技法により、スキゾフレニックな印象を強く与える。常に前言を叩き切って行く意志がある点において、本質的には異なるが。


 宛ら、我々には断片資料しか残されていない、この事による物理的な断絶:縄文人が、形となっているかのようである。和音の断面(、)の連続なのである。もしくは浮き島の羅列、しかしこれは列も成さない。我々には縄文に至ることが出来ない。血縁的にも弥生人縄文人を駆逐した。言語以前に属するという土偶。思えばこれらの土偶や土器は必ずバラバラに欠け割れた状態で出土する。これが、意図的に割られて埋葬された祭具なのか、時の経過と共にその重みに圧壊した故なのかはわからないが、一目見たその絶望的な姿容は我々に否応なく、彼らの了解不可能性を突き付ける。


 炎のような熱情、暴力的なモチーフの重ね掛けに反して、セマンティックな次元においては水に纏わる言葉が強調される。川、水飛沫、流れ、魚、地下水、アケビの実の肉汁、坐礁、涙、筏、滝壺、ザリガニ。炎は、朝焼けの雲のあわいに俄、それを放つのみである。


 決定的な切断は、形式における言葉の断裂に間接的な仕方で現れる。対して眩暈をはじめとする、困惑の数々。「音楽」に「瞳はなく」、見つめ続けても見られることはない。彼の視線は向こうに届くことがない。逆接や否定の繰り返される詩作。連用接続の多さからもつかみどころを見せない。断定することが出来るのは、体言か、「はじけでなければならぬ」、義務を伴う言説。あとは迷いと不明の中であり、詩作の総体は中空に放り出された土器の破片なのだ。「滝壺の底は抜けていて 二人の王/いつまでも落ちない眩暈となる」底抜けの眩暈は、その目指すところへは届くことがない

言論活動について

 直観から細部へ渡ってゆく。細部から直観、全体を構成する。どちらでもよいと思うのだが、全体ないし細部のみで充足してしまうのは、前者の場合印象批評に成り下がるし、後者の場合は細かな演出ばかりに気をとられて作品としての完成を見失う。


 ぼくの批評はかなり印象論の嫌いがあり、多くの作品批評ブログや記事は、後者に汲汲してそれは本当に奏功しているか、というのに視点がないように思われる。


 結局、作品でひとつの統一を作らなくてはならない。統一の仕方にはバリエーションがある。たとえばひとつのメッセージとして完成するのは一つのスタンダードだ。渾沌という仕方で、ばらばらがひとつの作品として止揚されていると言う在り方でもよい。いずれにせよ、「渾沌」ないし「秩序」という統一的な枠組みは必要なのであって、これがない批評では、作品論として甲斐がない。批評は阿呆の画廊であってはならない。細部を耽美称賛恍惚うっとりするのみではダメである。


 しかし、要素の分析、細部の依拠、根拠がない場合は、統一どころではない(統一されるべき内容が空虚なのだから)。印象批評が非難されるべきなのは、この事によってである。作品の空気に溺れたゆたうだけでも、やはりダメである。


 細部の卓越、それは確かに素晴らしい。しかしその素晴らしさは、作品として紐帯付けられているか?全体の空気がよい、それもまた加点であろう。しかしそれを産み出すのは何によっててあったか?


 必ずしもすべてが要素に還元されるのではない。要素と要素を繋ぐ「関係」という要素は、記述されづらい。だから、細部の分析で捨象されてしまう関係、つまり印象を語る必要がある。しかし、そこに明示的に見えるものはなんなのか、ということに視線を向けなければ、明示的に見えないものとの分節化もまた、果たされないのである。分析と統合はあらゆる批評における車輪の両輪である。


 学問活動、蒼然とした言葉で言えば、ロゴスを用いたすべての活動で同じである。哲学、テクストや過去の文献に汲汲、大いに結構。自然科学の個別応用ないし基礎研究、卓越した成果はそれ自体で素晴らしい。しかし、これらを自ら再構成して、私の中の社会を立ち上げなければ、世界の中の己の立ち位置を見失い、足元を掬われることになろう。


 しかしこれは夢見すぎであるか。意識高すぎ、もはや"系"でしかないだろうか。人の頭は限られているし、第一、こんなことは皆わかっているとしても、それでも気付いたら陥穽に嵌まっている。事後的に気づく。その様なものなのかもしれない。儘ならぬことである。

リズと青い鳥、作品評"以前"

 『響け!ユーフォニアム』の続編、且つスピンオフにあたる、山田尚子監督作品『リズと青い鳥』のレビュー的落書きである。


 私は二度鑑賞したが、根本のコンセプトにおける印象はその二回で少々変わった。初見においてはラストシーン、二人が笑顔でならび歩くシーンに、問題の未解決の薄ら寒い不安を感じたのだが、他のブログの感想記事(物語る亀さま、六月の開発局さま、山本寛オフィシャルブログさま、ナガの映画の果てまでさま、ソースに絡まるエスカルゴさま、Real Soundの特集記事、など)を参照し、見直してみたところ、二人の具体的な人間性への描写とそれらの複雑の解消に十分の解決が与えられていると思い直した。

 これはそれを示すのに準備するための、前提の提示のつもりである。


 私は本作品を、大きな出来事のドラマトゥルギーがあるわけではなく、微細なしぐさと会話によって微妙に進んで行く、私的な救済にのみ焦点がおかれた物語であると見る。具体的には何ら語らないが、大きな物語への準備たる現代青年的葛藤を描く作品として(は)、十分の資格を備えているものと考え、一定の評価をしている。

 ただし、作品全体としては、看過することのできない歪み、キャラ性とキャラクター(人間)性との水位の差がある。ゆえに、これを傑作であると評することには躊躇いを覚える。十分な良策佳作であり稀有な作品なのだが、根幹、土台、プロジェクトの趣旨にこの作品の価値を条件付きのものとしてしまう瑕疵があるということである。この、致命的な不適合によって初見時の私の印象が歪められてしまったと思われる。その欠陥とは「この作品が『響け!ユーフォニアム』であったこと」であるが、ここでは書かない。




 さて、「作品評"以前"」ということだが、ここでは表現の特徴(長)や構成など、また声優の演技や撮影、作画、動画、脚本、音響、bgm、演奏のクオリティ、間、その他あらゆる具体的な演出にはほとんど言及しない。これらに依拠した厳密な議論を行うことは、むしろ印象を損ねてしまう懸念があるゆえと、単に紐帯付けて示すことが面倒で、また私的な感想をさしあたって大事にしようと思うから。根拠と出典を示せないことで説得力が減ずることは承知しているのだが。


 長い前置きであったが、本編は以下である。ほとんど元書いたもののままである。なお、原作小説は未読、TVアニメシリーズも、二回視聴終了時点で一切鑑賞したことがないことを付記しておく。


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 みぞれの心情の整理は。
 希美を愛するのだが、彼女からの愛は与えられない。それが意図的かそうでないか、確信する材料を持たないから(希美の独白は徹底して避けられ、その真意は終盤近くまで視聴者にも明示されない)。

 みぞれは希美の一挙手一投足に一喜一憂する。
かなり、素直で、何が起ころうと彼女の中の希美、なにもない私を誘ってくれてなにかを与えてくれた希美への態度は変わらない。ただ、相手からの愛(視線)が前提となるから、過剰に希美の様子をうかがわざるを得なかった。

 終盤、童話の展開に託つけて二人の関係に新たな物語を読み込むことに成功し、彼女は自立する。相手から与えられないのなら、こちらから与えればよいと気づいたから。そうすれば幸せである。



 希美。快活で誰からも好かれるフルートのエース。自分はなにかを持っていることが、仮初めのカリスマであることに薄々気づきながらも、それに甘える。みぞれの好意に応えることも、これと等しいところがあった。それが、みぞれの実力が自身のそれを追い越し始めたことに気づく。......自分に好意を寄せていた者が、今度は自立してしまうかもしれない。自分に何かを求めて近寄ってきたものが、自足してしまったら離れていってしまう。

 現状より取り巻きが減る、この事自体は大したことではない。しかし、みぞれだけは別格だった。みぞれからの承認は、希美の心の深いところで、本人も明示的に気づかぬうちに、彼女という人格を強く支える不可欠のものになっていた。みぞれが他の取り巻きとは違う空気、隅に隠れる月のような空気を纏うことも、その隠れたカリスマを希美に突き付けた。希美はみぞれを惹き付けながら、同時にカリスマに魅せられてもいる。むしろ冷静に見ると、主客は逆転しているのだ。そしてこの実力ある特別な「取り巻き」が消えることは、逆説的に己になにもないことを突き付ける。自らのカリスマの虚飾を暴く。だから希美は決して受け入れられない。実力ある、みぞれ、からの好意は諸刃である。これだけの本物の才能を持った人が己を好いてくれると言うことは、私もそういう人に認められるようなことが何かあると言うことになる。



 しかし、同時にみぞれの実力は目の上のたんこぶだ。実力があるから、自足し始めてしまったら私のものになってくれることはなくなってしまう。他の何者かに、自らの空虚を埋めて貰うことを望む人は、空虚がなくなったら自立してしまう。

 これを、自らに準えて、恐れているのだ。みぞれは私の何が好きなの?こんななにもない私の?実力や、華やかさが、部内での彼女のアイデンティティを形成していた。すべての人間は彼女にこれを求めるのだと、自分では思い込んでいる。なにもない自分を愛してくれるはずはない。

 だから、みぞれが自分を求めてきてくれるのも、他のよくある取り巻きの一人のように、ただ少しだけ大人しめの、取り巻きであるから(トートロジーだが)にすぎないと思っている。

 地味だからこそ、太陽のような私に憧れているのだと思っている。だから、私の太陽が、実は地に蠢く有象無象のようなレベルの低いものだと知ったとき、それよりも遥かに優れたものを自分が持っていることにみぞれが気付いてしまったとき、彼女は私から離れていってしまう。



 見限るなどといって、これまで騙していたことを激しく恨むのならばまだよい。まだ、同じ土俵で戦えている、遥か価値を持つ人間が私のことを眼中に入れてくれていると酔えるから(だから、彼女は敢えてみぞれにつれなくするのだ)。

 しかし、みぞれが離れるとしたらたぶんそういう仕方ではない。まるで地上で暮らしたかぐや姫が羽衣を着せられすべて忘れて月へ自然の摂理として浮かび上がって行くように(ああなにか卓越したイメージがあったはずなのだ!月、吸血鬼、紅、本性を思い出したら、追いすがる男のことなど本当に認識すらしていないかのように自然のうちに去ろうとする女......、楽しい思い出を育むが、次第にその時の明るい彼女でいる時間は短くなっていく......)、みぞれは希美のことを、まるで彼女なんて初めからいなかったかのように、自足し始める。

 だから、これを恐れて、希美はみぞれ(私が本当になりたかったもの)に近づくことを避ける。近付いてしまったら、私が捨てられる運命だから。



 彼女からの愛からも身をかわす。実力を持つものが、卑下して身を落として私を憧れることが、私を求めることが、どこまでも深い欺瞞に感じる、甚だ不快に感じてしまう、たとえみぞれがそれに無自覚であると分かっていても(これもみぞれと同じく、確信が持てないのだ)。

 なぜそれだけのものがありながら、それだけの才覚を持ちながら、私なんかを求めてくるのか?(もしかして嫌味なのか?)この滑稽な光景を、物のわかった誰かに見られたら、粋がっている私がばれてしまう、露呈してしまう。この状態にあることで自分が笑われてしまうリスクを希美は十分知っている。

 だから、彼女はみぞれが自分についてくることに耐えきれない。「ついてくるな!どこかへいってしまえ!」



 みぞれは己れを際立たせる黄金なのだ。精々黄鉄鉱止まりの私が劣るのをすら際立たせてしまう。

 希美は自らが主人だと錯覚している小判鮫には、絶対になりたくないのだ。決して、これだけには、なるのに堪えることが出来ないのだ。自分がしてきたことを、他人からされることは心底受け入れられない。なぜなら自分は自足していると信じたいから。
 だから他人の羨望の的であることを望んだ。誰かに与えられ誰かを憧れることは、自分がなにも持っていないことを認めることをそのまま意味してしまうから。



 しかし希美はみぞれを自ら手放すことすらできない。彼女はみぞれの才能に心底惚れ込んでいるのだ。誰よりも彼女の力を知っている。誰より認めているのだ。だから、彼女からの羨望の眼差しは、何よりも強く己れの価値を証明してくれるのだ。

 故に、希美は彼女をきっぱりと拒絶することができない。これが恐ろしい対価を支払わなければならなくなる、禁断の蜜なのだとしても。みぞれには希美がすべてだった。しかし希美にとってもまた、この時点ではみぞれが世界の承認のすべてなのだ。



 だから、彼女はみぞれを付かず離れずのところで飼い殺しにしてしまう。彼女といるのはリスクが高すぎる。己れの虚構がばれてしまう。むりしてみぞれに対等であると頑張っていることがばれてしまう(新山先生はこれをはっきり見抜くだろう。だから、希美は彼女に牽制をし、そしてはっきりと、敗れてしまったのだ。音大受験なんて器じゃないことを暗に示されることによって)。
 しかし希美はみぞれの愛を、きっぱりと断ることも出来ない。そうするにはあまりに蜜が甘すぎる。





 きっと彼女がここで区切りをつけられていなかったなら、みぞれを凌ぐ才能が現れたとき、そしてその人が希美に見向きもしなかった時、彼女はみぞれを手酷い仕方で遠ざけるだろう。かの人物が希美に一瞥も呉れないことは、ほぼ間違いない。彼女もそう予感していよう。希美はみぞれが自分に引き付けられたのは必然と言う物語を信じたがってはいるが、本当は偶然、たまたま自分がみぞれに優しくしたからであることを心の底では無自覚のうちに熟知しているから。だから、彼女にとってこの二人の関係は、本当にぎりぎりの危ないバランスのもとにあるもの、終末を欺瞞する楽園だったのだ。

 彼女はみぞれを激しく拒絶するだろう。かの人に劣るみぞれが思慕するのは、そのみぞれにすら敵わない憐れであまりに惨めな私なのだから。彼女の能力への希求は止まらなくなってしまうのだ。みぞれ程度の才能からの愛になど、もはやしがみつくことは許されない。みぞれを激しく憎悪して、そして才能に加え、みぞれを形代に攻撃してしまうそんな己れのくだらなさまでも救い様なく感じてしまう。あとは、引きこもりでも自堕落な生活でも援交でもリスカでも自殺でもなんでもするがいい。

 もしくはみぞれの才能をひたすら妄信的に応援し続けるだろうか。みぞれも己れも心中するかのように、二人だけの楽園にとじ込もってしまうだろうか。そうであっても、みぞれが夢から覚めて、希美に引導を渡して、希美は、上の通りである。
 ......まあ、実のところ希美はそこまでみぞれに依存してはいなかったと思うけどね。精々みぞれを見限って、心地よい小バエたちとの戯れに遊興することで満足しようとできる人だと思う。しかしいずれにしろ、精神の危機から脱することはできず、いつまでも成熟できない自分をもて余すだろう。



 熱くなってしまった。なんにせよ、希美はみぞれが唯一の命綱である。みぞれが自分に騙されてくれていることが、リスクと表裏一体で己れを支える価値のすべて。

 しかしみぞれは希美のそんな打算とは全く違う世界で生きているのだ。みぞれはただ希美個人のすべてが欲しかった。希美からの愛だけが、彼女の望むものだった。彼女に、私だけを見ていて欲しかったのだ(パートの女の子達に並ぶ、取り巻きの一人などではなく)。

 普段から彼女はきちんと私のことを気にかけてくれている。個人的な友愛を結んでいる。私だけを見ている、私は彼女にとっての特別。なのに、私が見ようとすると、彼女はいつも視線を返してくれない。私の見ていないときにはいつも私を見ているのに、私から見つめる時には決して、彼女は私を見つめ返してはくれない。なぜ?みぞれの単純な心は揺れ動く。

 しかし、希美の打算と諦めと悔しさと、どろどろとした感情を想像することは出来ない。彼女はどこまでもピュアなのである。どこまでも素直で、希美に翻弄されることしか出来ない。とはいえ希美は翻弄してやろうと思っているのではない。希美もみぞれから逃れられないのだ。


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 ......と言うのが、部内の二人の立ち位置と冒頭五分のカットから、最終的には鮮明に読み取られるべき、二人の関係性の持ち札である。だから、まだ作品論には入ってないというのだ。描写から常識的に読み取れる属性を記述しただけである。念のための注意ではあるが、この二人の(些か歪んだ)二人の愛の関係が恋愛であるかどうかは確定的ではない。そこまで確実に図り知るまでの情報は与えられていない。それは慎重に忌避されている、余白を意図的に作ろうとしているように見える。差し当たりは、人間的な複雑とすれ違いが物語の前提になっている、と言う確認だけ。


 これを、映画のなかでどのように昇華していくか、と言うところにおいて初めて、作品論と巧拙が語られるのだが、今はそこまで踏み込んで語る体力はないので一先ず措きましょう。

否定的殴り書き(よつばと!14巻他作品全体に関して)

 新刊が出たのだが、読めば読むほどこれが幸せなディストピアに見えてくる。幸せのパッケージとして現代にどんどん絡め取られてゆく気がする。

 クレープのホイップクリームのような甘い夢想に溺れて、静かに、変わらず終わらぬ、成長すらもなく、ただ大人たちが称賛する驚きと発見だけがあって。これは即ち甘いユートピアと言う、畳語である。


 そもそも物語開始時におけるよつばの到来とは、誰にとっても非日常の陥入であった。しかしこれが日常へと着地してゆくにつれて、物語は不気味さを帯びてゆく。

 よつばがビュッフェで感じた幸せの飽和への、薄ら寒い根元的な不安は、この終わらない日常の真の恐ろしさを内部構造から突き崩してゆく端緒となり得るかに見えたが、また即座に子供の素晴らしさを謳うメッセージに回収され行く。そんなことでは小揺るぎもしないのが、真白のクリームでできた牙城。
 逃げ場がないのではあるが、しかし逃げることなどナンセンスである。とはいえこれは全く理想郷などではない。新篇反逆の物語と見事な相似形を成す完璧な世界。外界なき偽りの楽園と、使命を忘れた仮初めの天国。
 これは子供を育てる、という使命を十二分に果たしているとも思われよう。しかし、それはこの場合もはや世界を維持する自動人形の決まりごとに堕しており、本物の日常へと接続したはずの作品は現実の育児を忘れて夢をたゆたい繰り返すだけである。

 ......よつばが出てこない時、よつばと子供とが出会われる互いの真剣の時。そのたった二時のみが、彼らの世界を社会へと接続する道である。正常な世界へのわずかな縁である。彼らの連関の全体は恐ろしい。白く散光する甘いメレンゲ。それは私を窒息させる。




 今となって語るは詮無きことだが、思い返してみれば確かに11, 12巻辺りからきな臭い空気は漂ってきていたのだ。画面が著しく整ってくると同時に、作品と子供を取り巻く空気が変化するのを。それが意味することをよく知らないままに感じ取っていた。
 些末なことだが、長期間刊行が空いたためか、切れ長の目をしたキャラクター類型の作画が大きく変わっていて、同一性を保てなくなり始めている。


 この漫画に出てくる大人は一切の苦悩をしない。見せない。それはふたばに見せないという作品論的な次元で解決可能なものかもしれない。
 しかし、その割りには、あまりにも磐石過ぎるのだ。あまりに子供に人生を捧げていて(本当はそんなことないのだろうが)、彼らは先駆的決意を彼女に既に託してしまったとでも言うのか。

 そんな中にあって、調和の破壊は突如訪れる(予兆はあった。しかしここまであからさまな暴力性を帯びて登場させるとは、誰も思わなかったのではないだろうか)。
 表情を持たぬ顔で通りすぎようとする、東京の改札のおじさん。彼は異様に生々しく、浮いている。最大限マイルドに描かれたそれですら、これまで戯画的に描かれていた日常人の情けなくもほほえましい姿からは激しく乖離して、欺瞞の欠片もなくただ苛烈だ。
 東京と言う世界の恐ろしい賑やかさと内部に秘められた破裂寸前の、釘の詰まった袋のような澱んだ癇癪。この生々しい本物の現実が垣間見えてしまったことによりよつばは空転する。
 この14巻においてはそれ以前にも、ステレオタイプにおもねってしまったような、"らしい"子供のぎこちない反応がそれまでになく何ヵ所にも披瀝されるのだが。
 それでもコミカルなモブ達と街の人々の(少なくとも)見せ掛け(以上であることは確かである)の陽気さはそれを過剰に取り繕うかのようで、それまでの流暢さを失ってしまった彼女のごっこ遊びをしかし全力で、飽くまで自然を装って彌縫しにかかる。
 これは見事にこの世界の外側を隠蔽することに一先ずは成功する。しかし本来は寧ろ彼のおじさんの方こそが人間的人間であるはずなのだ。彼の登場は幻想の国の自己矛盾の亀裂から上がった悲鳴なのか。

 彼の生命、生命ゆえの疎外と解離と頽落という真実をば、しかしこの作品の全ての意図的な力動は巧妙に覆い隠そうとする。すべては子供のため。すべては子供のため。




 物語は単純だ。よつばが世界に驚く。大人たちはそれを助け、またより大きな驚きを見せようとする。しかしそれが観衆を意識するがゆえに躍り手の自由が逆に際立っていた初期と比べ、巻を重ねるにつれ第四の壁はリアルな作画によって取り払われてゆき、私たちの日常に接続する。
 構成は巧みになり、細密さも上昇して、これこそが私たちの生きうる日常だと主張する。だがそれを見つめる眼差しが人々にマリオネットの糸を絡ませた。作品は時間をかけすぎたのだ。
 もはやよつばは成長しない。成長することを許されない。成長できない。無垢な喜びを維持しすぎてしまったから、演劇するのには無理が出ている。作品世界は綻びを呈している。すでに悲鳴をあげているのだ、窒息しそうなこの空気に、現実と接続するはずのことを無理矢理塞き止めている誤魔化しに。

 作者ですら、いやむしろ彼こそが、そうであるか。新作そして"名作になる"につれ刊行ペースが極端に落ちたことが、その軋みを象徴すると考えるのはきっと邪推であるのだろう。


 それでも彼らの世界はやはり飽くまで自然に営まれているらしい。そこでは誰もが子供を想い、子供を中心に世界は回る。少なくとも、そう見える。それは未だに、あり得る日常そのもの。
 しかしこれの視点は誰なのか。これを映して提供してくる窃視者は誰なのか。いい加減に彼らを写すカメラの欺瞞が露呈してくる。観測者なき記述は存在しないから。この作品を取り巻く空気は徐々に、よつば自身の頸を以って、真綿のように括れ殺してしまうのではないか。

方針

 本ブログは私が個人的に書き溜めたものから、公開してみようかと考えた端書きを投稿するものです。


・ジャンルを特定しません。主題を明示しない場合もあるかもしれません。

・純粋にブログ向けに書いた記事は、この記事を除いて生まれないことと思われます。

・引用は少ないと思います。厳密な議論ではなく直観/感に基づく私的な文章です。