(かつ) 日記でも小噺でもなく

自分の感情で手一杯なのだが

 自らの感情、即ち精神の基盤、肉体も情態性も含めた根本気分。

 これが内側―真の外界だとすると、〈子ども〉の問いは、外側と内側の境界面上に生じる問いだ(その他の哲学的問い(ないしその他すべての学問的・実生活的問い)は外側―形式的内界の問いになる)。子どもの持つ、世界と直に触れている感覚。この境界面には、自己というものが宙吊りとなって存在してしまっている神秘がある。自らが世界の虚ろな焦点であるかのように感覚し、自らこそが世界と正対しているという素朴な直観。天使の眼たる己の直観。

 だがそれは錯覚だと思う。始まりは神秘ではなく肉である。子どもは自らの内側―外界を感じ取ることが出来ないから、Genetisch に間違う。自己の肉体的基盤がある。意識が芽生える前に、我々は既に肉である。むしろ、「物心」つくようになると、そのことを忘れてここに初めて自己が生まれたように欺瞞されるのだ。これまで散々肉に埋もれて、貧世界的に生きてきた己を忘れ去るのだ。

 ここに立ち戻るためには、自己反省ができるようにならなければならない。大人となって、自己の肉体的存立基盤(そしてその煩わしさ!)が改めて問題にならなくては立ち返ることが出来ない。そうてなければ真の原点は見えてこないと思う。原始の問いは、むしろ先に進まねば得ることが出来ないというパラドクス!


 ただし、境界面こそが原始であり、自らの(肉体的)歴史を信じることがむしろ虚構に縋り付く危うさを孕む、とする立場ならまた理解の余地もある。「〈子ども〉の問い」と、「大人による〈赤ん坊〉の問い」。この立場の対立を如何様にして決着させるか、出発点を見定める上で避けることはできないように感じられる。

本質が附随してくる

 快楽を充足させようとする行為と自傷行為との関係は、発酵と腐敗との関係に等しいと思う。人間の生活にいい影響を与えるか、それとも害する要素が含まれるか。ただ二次的作用のみに基づく人間基準の恣意的な価値基準で、それが実に小気味好い。

反復

 今日一日色々あって
 それでもこうして今も生きて
 明日の命も生きていく
 生きていく予感を持っている
 たとえ再び希望が潰えても
 消えてしまう他なく思い做しても

 失望の灰の中から
 生きる明日が顔を出す
 何もしなくても顔を出す
 何もしないからこそ
 忘れるからこそ思い出す

 だから夜半横たわる
 布団は一日の燃えさしなのだ
 気づくとここに翌日があって
 仕方なくても満更でなく
 明日がここに顔の形を示すのだ

天才性についての用意の足らない試論

 今日の友人との議論の中で、処理能力を才能や天才の中に含めなかったのには理由がある。それは(理論上)論理で説明可能なものであり、時間さえかければ誰でも到達可能なものだからだ。

 天才(性)というものを、プリセット(ア・プリオリ)な知、その直感のうまさとして定義するが、処理能力にはその容量の多寡はあれど、質(=やり方)的には変わらないものだと考える。天才の(飛躍的な)「直観」に凡人が達する為にあるのが学び、論理による思考と実践であるとする私の考えとしては、飽くまで「誰にでもわかる」推論の積み重ねとしての論理、ひいてはその処理能というのは、「能力」、つまり「できる」を成すことの成否には関係するが、定義上「才能」ではないものである、としたい。

 ここで、才能の対概念として措定したいのが「適性」であり、それは論理によって到達する時間的及び資源的効率の良さを指す概念である。これには処理能の多寡は大いに関連する。

 しかし、「能力」は、知の本質(つまり「どう知るか」!)には関係しない量的な概念と考える。天才的で飛躍的な直観に頼らぬ平凡な直観【「平凡な直観」概念を認めるとするならば、論理はこの飛躍、走性つまり選好を必要とする[どちらかを「選ぶ」という傾向性(=法則性)がなければ、判断も計算も決してできない]。それゆえ、すべての人はこの飛躍を大なり小なり持っていることになるので、程度は違えどみな「天才的」であると言えよう】によって「できる」に到達する力が論理である(そうするならば天才とは「できる」ことではなく、「できるようになる仕方」の特殊なさまを指す概念ということにもなる!)ので、処理能力の多さは、私の定義に従うならば、天才のものではないのである。むしろ天才に凡人が追いつくために有用な適性を示すに足るような「能力」、つまりは天才の反対の概念にこそ関与する指標だということになる。

 もちろん、「天才」を「できる」ことに極言してしまえば、このような天才も秀才も等しく「天才」「才能がある」ということになるとは思う。しかし、後者のようなものを、理解できぬものではなく我々と地続きのものとして囲い込みたくなる心性があるからこそ、人はそれを「秀才」とか「努力の人」とか呼びたくなるのではないか。この言葉遊びは、そこまでおかしな弁別を導き出してはいまい。

 ……ただこうなると、また「能力」という概念を捉えるのがやや難しくなってもくるかもしれない。天才や才能を持つ人のことについて、何かを上手くする「能力を持っている」と言いたくもなるからだ。

 ……いやしかしそんなことはない。天才とそうでないものとを分けるのは偏にその「でき方」が、ア・プリオリな知、直観の鋭さによるものか論理によるものかという違いであるから。「能力」が取沙汰するのは、その知のあり方、できるようになるその仕方ではなく、できるという結果、その事実そのものの原因となる人間の持つ力についての、大掴みな一群に過ぎない。だから「能力」概念が天才にも平凡な才能にも跨る概念だということは、天才性をめぐる議論をいっそう複雑にすることがない。これは安心すべき概念だ。

 また、こうも言えるかもしれない。ある能力を持つことが「できる」ということ自体を「才能がある」「天才的だ」と呼ぶのだと。その場合はこうすればよいか。天才と才能とを弁別してしまえば。才能がある、というのは天才的であるのと適性があるのとの二通りの仕方がある。そのうち直観的に優れているのを天才と、論理実証反省実践により達成へと近づいてゆく仕方に優れるのを適性があるといえば良い。

詩にならない

 午後一時の太陽 は
 こんなにもきいろかったのだろうか
 蜂蜜色の光が壁にかかった布団を舐め
 遠くの空は春のように霞んで
 思ったより低い陽光に僕は目を細める
 肌に感じる涼しげな空気だけは
 冬


 多くの人々は屋内で仕事をしている
 女の人が外を出歩いて買い物をしている
 男の人は駅から家に急いでいる
 若者は学校をはや抜けして自慢げに町を歩く
 老いた人たちは痛む股の関節を労う
 虚しい心を埋めるように幼子の手を引いて歩く
 ボアやダウンやフェルトやポリエステルのこの人たちの外套も
 冬


 パン屋の匂いは近づかなければそれとわからない
 鼻腔に触れる微風にはなんの色もついていない
 ふわっと香る後れ毛や洋服その柔軟剤の匂い
 みな冷たい空気が阻んでしまうみたいで
 枯れ葉の土の香ももう遠くの春を忘れる
 ただこの日だけこの日の世界を満たしていて
 冬


 黄色い太陽
 黄金色のきらきらした液体
 麦のお酒 おしっこ それとも耀く未来の曙
 よく知らなくても今日の日は冬 冬の中の
 とろとろとした光のなみ
 きんいろの人たち

 今日だけは
 大勢の
 一人の町

マクドナルド

 食べてる
 噛んで食べてる
 食べてる

 この世の憎しみ
 私
 パティとチーズとケチャップ
 唇のヘルペス
 噛んでる

 噛んで食べてる

 忘れようとする
 忘れる
 なにを
 なにかを
 嫌な気持ちもない
 なにかを
 なにを
 忘れる?
 忘れようとする

 嫌味

 噛み締める
 軟骨
 バンズ
 100%無添加ビーフ
 その軟骨
 赤々とした中に白
 歯茎
 血液
 ケチャップとみじん切り

 白

 なにかを忘れる
 なにかとても大事でないもの
 忘れる
 なかったことにする
 暴力に飽かせて噛む
 体を苛める
 油
 肉
 大事かどうかも見分けがつかぬ
 明るげな音楽
 心がぬけぬけして
 なんのために
 忘れたからわからない

 洗い流そうとする
 冷たい液体とバニラビーン
 なににむしゃくしゃしている?
 なににも
 不定愁訴
 眠りたかったことを
 洗い流す
 今日の自分をなかったことにする
 何が悪かったのか
 なにも
 なににも?
 ただいやになったのは
 眠氣
 食慾
 そんなようなもの
 冷たい氷で腹んなか冷やして考え直しな
 凍った心で
 冷えた頭
 手足も冷え性
 十二月

 終わった
 終わって
 終わらない
 流されない
 二五〇のYENが終わった
 それだけでなにもかも
 またもとに戻った
 少しふくれた腹を抱えて
 頭はモヤのかかったまま
 心は凍ったまま
 胃腸は動き出す
 体は眠り出し
 同じことね
 何かしなければ

 なにかするなんて何て
 乏しい

 いまはただ
 ただ眠い
 飲み込む力だけは残っている
 満足を
 もたらすものだけ求めている

 "要らなくなるまで欲しい"
 余韻のように

「死にたい」という語りについての小片

 

 死にたいじゃなくて消し去りたい
 過去とそれを持つ自分の存在ごと



 「死にたい」と何度も語ったことのある人には、ふと「けれど『死にたい』んじゃないんだけどな」と考えることがあるだろう。たとえば、「死にたい」のではなく、自分の"悪い部分"を腑分けしたい。もしくはそれが帰属する私という存在が存在しているという事態を恐れて、それらを消し去ってしまいたいのだと。

 けれど、そういう迂遠な言い回しでなく「死にたい」と語る。それには理由もある。これはとても気持ちいいことだからだ。「死にたい」という語りには、すべてを切り捨てて、もうやーめた、と言ってしまうような清々しさがある。不快に思う対象を細やかに分析して同定するより遥かに手っ取り早い。だから人々は「死にたい」と語るのだと思う。そもそも、嫌いな自分を分析する、つまりはその葛藤に直面できるような体力も時間も落ち着きもないのだ。死にたい、という言葉に折り畳んでしまう他ない。この生暖かく薄暗い狂おしい気持ちすべてを。

 そういう意味で、死というのはとても分かりやすく、また威力のある記号だ。このような「死にたい」は、痒いところを効果的に引っ掻いてくれる。悪いところがあるとすれば、それはこの引っ掻き傷は深すぎて、肉を腐らせるところ。些細な傷が、そのはずだったものが、本当に「死にた」くさせてしまうところにあるだろう。

死者から生者への"レクイエム"


 「死者から生者への鎮魂」とは果たして可能なものなのだろうか?


 まずは「生者への鎮魂」という部分である。鎮魂とは、荒ぶる魂をおさめようと働きかける儀礼のことだ。未だ静かならず静まらぬ魂を、鎮める営為を我々は鎮魂、と呼ぶ。
 多くの場合、それが取る対象物は死者の魂となる。死して、本来静まるはずの彼の魂が安らぐことなく、憩らうことなくなんらか働いている魂。それをあるべき姿へ鎮めるというのが鎮魂の儀の通常の姿である。

 ここには、死者の魂とは安らかにあるべきものとし、彼らが安らいであることを欲する類いの生者の願望が見える。死者は働いてはならないし、生者との交流も許されない。この世は生者の王国であり、生者の営為のみを考えることによって生者はその生活のノモスを維持する。
 鎮魂儀礼はノモスとカオスのあわいに位置している。生者たる秩序が、生者ではない、死者たる無軌道な混沌によって冒されることなきよう、混沌そのものを鎮める天蓋の役割を果たす。そうしてコスモスを形作る。P.L.バーガーによる、聖なる天蓋である。


 それを生者に施すとはどういうことか。
 生者の魂を、静まるべきものと規定するということである。


 生者の魂はそもそも働いてあるものである。なぜなら彼らはanimaなのだから。働いてあるそのあり方によって、生活が作られ、また破られる。生者の魂は静まらずして代謝をし、古きを捨て、新しきを作り、またハイデガーに教えられるまでもなく、温きに学び来るものを憂慮する。いずれにせよ、静かならぬ事こそ生者たる証である。
 その生者の魂を鎮めるというのである。
 生者の魂は働く。働き、動き、静まることはない。しかしノモスは止まる。留まるように、生者は働く。これが破れてしまうと、カオスの流入を許す。だから生者の動くのと対照に、ノモスの世界は動きを止めようと為される。彌縫的な世界。

 生者の営みの系たるノモスを、第一義的に破るものと言えば死だ。それは生者の営為の決して及ばぬ無限遠点である。しかしそうでなくとも、ノモスは事あるごとに小揺るぎしている。何によってノモスは衝撃を受けるか。生者の世界は何によって脅かされるか。カオスである。しかしカオスでなければ、それは生者そのものによってである。生きる生者の生きる証。そのものによってノモスは揺るがされ、内側から生じたカオスに食い破られる。


 そのような生者を鎮めよと、そう言うのだ。


 そして「死者による鎮魂」である。
 死者は行為できない。これは死者というものの定義により必然である。だから死者は端的に鎮魂することはできない。ではどのように彼らは鎮魂する事ができるか。それは生前の死者によって。
 死者が生者の王国になにかを為すとすれば、それは彼らの残したものによってである。プラトン的な魂の不死というのは確かにそのようにして(ただし文明と記憶の残る一定期間に限り)成されるのだが、では鎮魂の儀にとり何が残されるべきか。それは儀礼の燭台でも聖餐でも抹香でもましてや儀礼システムでもなく、言葉である。少なくともそう考える者がいる。

 不死なる死者。それは彼らの声である。それはどのような声か。長い、短い、大きい、小さい、高い、低い、煩い、酷い、柔らかい、老いた、若い、女の、男の、そうでないものの、そうであるものの、無念な、喜色の、呪う、祝ぐ、様々の声。
 彼らは鎮魂により何を望むか。死者は望むことがない。端的でなく、決して未来を気遣うことはあり得ない。彼らは過去に取り残された遺物だ。生者にとる異物だ。顧慮する主体を持ち合わせず、ただ声だけが生者の王国の天蓋に反響する。意志なき死者。遺志のみの死者。生者は到達できぬ死者。死者は通りすぎてしまった。互いにおける深い断崖。ただ声だけが谺する。谺し、生者の耳に入る。自らの鎮魂を叫ぶ声。なにを望むことなく、ただ生者の鎮魂を求める声。それは如何な望みでありうるか!
 

 そのような仮構をつくる者さえ、生者である他あり得ない。声も、音律も。死者は概念を駆動しない。死者はシステムを動かさない(うごかされることはあっても!)。
 真実を語る口は決して死者による鎮魂など語らない。それでもこのレクイエムを語ると言うのなら、それは生者が死者の骸を被り、同族に向かいて発する警鐘であろう。本物の死者がノモスに訪れる前に。仮面舞踏の淫靡な騒乱の最中、先んじて生者に耳打ちしているのだ。

(無題のドキュメント)

 簡単にいってしまうとですね、僕ら若者世代はみんなロストジェネレーションに憧れているのです。僕の周りの人たちってみんな偉いですよ。人や時代のせいにしようという人は誰もいなくて。人はみんな自分にできることをおおよそ全部きちんとやって、若いのにコツコツ真面目に頑張るんです。

 早熟にして海外とかグローバルとかで派手に活躍している人だけじゃなくてね、普通の人も普通なりにすんごく偉い。むしろ普通の人の方が特別に偉い。自分をよくするための努力を怠らないのに、一人分の人生を生きられるような、すさまじいバランス感覚があるのね。驚嘆しちゃうわよ。なかには例えば僕みたいに、そういう努力なんてものをやらない(やれない?)人もいるけど、彼らは(僕らは?)そんな人をもバカにしないんです。ま、そもそも人をバカにするような余裕、ないんですけどね。

 人のせいにしたり他人を見下している暇があったら自分にできることをしましょってことです。昨今の風潮としてもよく表れてるじゃないですか、ほら、例えば、国民が政府目線で大局的にものを見るようになったって。おんなじことですよ。人のせいにするんじゃなくて、自分に与えられたパイの中で頑張るんです。誰かからそのパイが奪われたものだとか、そういうことは考えない。ちょっと前に流行ってたようなあまっちょろい考えがなくなって、みんな大人になったんですよ。結構なことじゃないですか。



 それで、たまにそういう厳しい空気が耐えられなくなって、ドロップアウトしたりこうして、ほら、少し昔を羨んだり、なんだか愚痴っぽくなってお母さんやお父さんを殴っちゃったりする人が出てくるわけですけど、そういう人を見たとき、善良なる意志の人びとは彼らを鞭で叩いて叱咤激励するのか、と思えば、どっこいそうではないんですね。

 じゃあどうするかって言いますと、この人たちは、ああ、そういうひともいるんだあ、と優しく迎えてあげるわけなのです。僕は違うけど君はへえ、そうなんだ、いいね!ってそういうやつですよ。壁一枚、それだけあればどんな隣人がとなりに住んでいようと受け入れられる訳なんです。すっごくいい社会ですよね、これ。

 あ、皮肉でいってるんじゃないですよ。ほんとにそう思ってるんです。そら、ヴォルテールも言ってるじゃないですか。君がそれを言う権利は命を懸けて守るって。まあほんとは彼自身は言ってないらしいですけどね。どうでもいいじゃないですか、いい言葉なんだから。



 さて、なんの話なんだっけ?そうそう。僕達は二、三十年前に若者だった人たちを羨んでるって話でしたね。そうは言いましたけど、こう僕が語ってきた通り、羨んでる人ってそんなに町中を出歩いてる訳じゃないんです。じゃあ誰が羨むのか、と言いますと、出歩いていない若者が羨むんです。いや、これつまるところどう言うことかと言いますとね、なに、簡単なことです。同じ人が外では、自分の自由を頑張っていこう、っていうこのタテマエを守りながら、内に籠って蹲っては、なにか自分じゃないもののせいにできた時代を羨んでるという、それだけのことです。

 外出している間には、僕も君も頑張っているうぇーい、ふぁぼつけなきゃ、インスタバエ、とか表面上のコミュニケーションをとりながらも、裏ではコツコツ意識高ーく他人よりすこーしだけ先んじようと努力をしています。けれど帰りの電車のなかでふっ、と気がつくと、ああ僕たちってなんでこんなに疲れているんだろう、って思うということなのです。



 ところで今はもう平成も終わりじゃないですか。平成時代、何て言うのが一くくりになると、動もすると二十年前の人たちと今若者である人たちとが、おんなじ若者平成の人として一緒にされてしまうこともあるわけですね、これが案外。全く困ったことですが。

 そんな中で耳聡いというか、ちょっとひねくれたような人なんかは、ロストジェネレーションとか言われて憐れまれた人たちがいたのだという情報をどこかで拾ってくるわけですね。そんでね、そういう人たちと自分達とを比べてみると、あっれれ~おっかしいぞお、平成って十把一絡げにされちゃうけれど、僕らとは大分雰囲気が違うよお?なんてことに気づいてしまうわけなのです。なのですよ。

 まあ考えてみれば当然で、平成も明治や昭和ほどではなくても大正や寛政や文化文政年間とか、大化や安和や承久なんて時代よりは遥かに長いわけなので、本当は三十年が一くくりになっちゃうワケがないわけです(ま、くくっちゃうような人は相当なおっちょこちょいだと言う話で、実際はそんなにいないのかもしれないですけどね)。



 とにかくそこで彼らというか僕らは思うわけです。僕らはゆとりだなんだってさんざんバカにされてきたわけだけれど、親の脛をかじりお母さんのおっぱい吸い吸い(お父さんのおっぱいはあんまり吸えないんだ)、それでもなんだかんだ自分の足できちんとやって来たわけだ。都合の悪い部分も含めてあなたなんだよと。自分のことは自分でって。

 それなのに、あれ、この人たちはなんなんだろう。「失われた世代」だって?自分等の繁栄は先の時代の人たちに奪われて、暗黒の時代を生きていかされてるんだって?え、そんなこと言っちゃっていいの?僕らはこんなに頑張ってきたのに、とっくに失われた世界を生きてきたのに、こんなこと言って甘ったれてた世代があるの?そんな、ばかな......って、思うわけです。こんな甘ったれたことを言っていいなんてこと、誰も教えてくれなかったのに......って。


 つまりね、景気の数字は良くなってるみたいだけど(でも日本のお偉いさんが改竄や忖度やなんかをして、あんまり当てにはならないんだ)、今も二十年前も大して情勢は変わらない。むかし若者だった彼らは(まだ若者の部類かな?)、自分等の胸や懐が寂しいのを、暗黒の時代のせいにしてのうのうとしていた。

 しかして翻りまして僕らはどうか。この莫大な空虚は自分で抱え込まなきゃいけない。この胸を衝く、得体の知れない昏い澱のような閉塞感はというと、人のせいにできない。ヤリガイだかマキガイだかキチガイだかなんだか知らない極彩色のケーコートー?それともLEDライト?だかなんだかでよくわかんないうちに有耶無耶にされている。ワークライフのバランスとか、権利の向上とかなんとかで煙に巻かれて。

 なんだか、都合のいい話だなあ......。自分が若者の時はバブルの時代のせいにして、今は若者に自分で頑張れって言うのかあ......。そういうヒガイモーソーを考えるわけです。小便くさい帰りの電車に揺られながら。



 けれど考えるとはいっても僕らも暇じゃないんだから、ぼんやりとしか考えないわけで。まあ、いっか、ってタイムラインをスワイプして流すみたいに通りすぎてってるの。やりがいがどうとかは言いたくないけど、でもテレビも言ってるこんなに美しい国日本のタスキを、次の世代に繋いでかなきゃ、みたいな顔して、しこしこ意識を高めるわけです(高めるものは自意識か?)。自分のことはきちんと自分でやってね。

 自分はプロ社会人になるけど、できない人を見下したりもしない。ただ少しだけそういうかわいそうな人を見て甘い汁をちゅっ、って吸うことは許してね(山田詠美だったでしょうか)。ちょっと安心することくらいはいいでしょって。それで、そういう安心と引き換えにして、そんな人たちのためにもってことで、社会問題にまでアンテナ張って歩くわけ。プロの社会人はそういうところも隙がない。

 日夜、人よりすこおしだけ、意識を高く持って、人に見えないところでこっそり自分を磨くの。しこしこ、しこしこ。そんで町中では常識と良識を持つ。欺瞞じゃないのよ、この二面性は。仮面でもない。敢えていうなら仮面しかない。どちらの僕らも本物の僕らだ。本物であり、偽物の僕らだ。



 そんでね、それでも僕が言いたいのは、やっぱり今の人たちはロスジェネを懐かしく思わざるを得ないわけだということです。たとえばね、最近のアニメ、僕のような人はやっぱりこういう「オタク」みたいなものに興味を持っちゃうわけだけど、とにかくアニメ、硬派なやつはみんなエヴァの焼き直しじゃない?そういうのもたぶんロスジェネを懐かしがっているからで、それゆえ過去の記念碑をいくらやっても越えられない。越えられないで、いつまで経ってもぐずぐずしている。

 でも、今またエヴァをやろうとしたって、うまくいくワケがないのだ。なぜなら今の時代は次代だから。ロストされたジェネレーションを乗り越えた(と期待されている)、ロストされてない(とされている)ジェネレーションの時代だから。最後はよくわからないうちに、とにかく宇宙に飛び出して、大花火打ち上げて視聴者をだまくらかして終えるの。タテマエってキレイだね、けどタテマエもホンネでしょ?なーんてメッセージを残してお茶を濁すの。

 なんでも人のせいにして、昔も未来も僕らをいじめるって、そうやっていじけていてよかった世代。そんな、ありもしなかったロストジェネレーションを羨む僕らがいるのだ。

 失われし「失われし世代」。
 そういうのもロスジェネらしさだろう。

 オチませんけどね。

 そういうのも、ロスジェネらしさでしょうか。
 

肉体と精神、もしくは物質と表象に関する断片

 精神は全身に遍在している。
 当然だ。意識の依り代は神経なのだから。
 多寡疎密によって、精神がより多くあるかより少なくあるかが異なるというわけだ。
 情報処理器官たる頭脳はもっとも精神に満ちており、下唇や手や舌先には比較的多くのそれがある。反対に腰つきなどには疎らにしか存在しておらず、また例えば眼球自体には比較的少ない。


 では空間感覚はどうなのだろうか?依り代がなければ精神が飛び回ることが不可能であるならば、肉体を越えた感覚は不可能となってしまう。顕在的身体と潜在のそれとのギャップも説明がつかなくなる。
 依り代は自己認識の依り代であり、その全体の系が保全されているならば、その認識は一部が失われたとしてもしばらくの間持続するということか(幻肢痛など)?


 では体外感覚は?
 ボディマッピング 身体感覚は、物理的実感の「仮想virtual」だと考えればもろもろの辻褄が合うか?潜在的身体も、解離症状も。
 流入感覚から、物理的身体を「仮想」的に構築する。感覚は入ってくるけれど、物理的身体そのものに精神はアクセスできないということかな?で、そういう自己認知とは異なる次元、つまり物理的な方において、肉体は精神のメディアであると。


 メディアであることと、依り代であることとは、似ていながら少し違う現象を指し示していると言うことができるか。前者は物理的世界から、後者は意味の世界から同じ現象を記述したもので、それぞれが仮想するお互いは、指示されながらも微妙に違ったものとなりうる。インクの染みは必ずしも正確な意味伝達をなし得ず、器質を観察することが精神の有り様の一対一対応をまともに定義することが困難であるように、依り代として精神が仮想した身体は幻肢痛などに現れるようにして実情の身体との何らかの背馳を生じさせ得る。