窃視

 見られないことを補完しようとして見る。電車なんかでキョロキョロしてしまう人はだいたいそういうことなんじゃないかと思います。自分が見られてこなかったそのことがすごく悲しいのです。自分が必要とされてこなかったその歴史はとても虚しいものなので、そういう人たちはまだ自らがきちんと一人の人になっていないのです。彼らはいままで、たとえ目が合ったとしても、気まずい思いをしたことしかありませんでした。見られなければ、見る権利は与えられません。でも、見なければ相手も自分を見つめ返してはくれないのです。彼らの人を面と向かってきちんと見据えてこられた経験はとても貧しいものになります。彼らは人の目を見ることのできない自分の目のことを、汚らしいものだというふうに感じます。汚らしいから触れられないのです。汚いものできれいなものに触れてはいけないのです。ああ、私の目が汚れてさえいなければ、私もあなたと目を合わせられるのに。

 けれど、見られていないということは同時に、見ていることもわからないだろうという予断も生みます。いえいえ、実際は違いますよ。見られていないということは見るなということでもあるので、そんな拒絶の予防線を張っているときにバリアーぶち抜いて突き刺さってくる視線は極めて煩わしく不快なものです。けれどその人たちには、見てきた経験がないのと等しい程度において、見られてきた経験もないのです。彼らには他人のことがよくわかりません。なにせ自分のこともよくわからないのですから。あるいは、わからないということにしてもいいような気がします。見られてることが知られそうになってもすぐ逸らせば大丈夫だと思います。自分がまるで透明人間になったかのように感じて、ギリギリまで不躾にもじろじろ見るのです。

 ところで、大概の人は常識とか自意識とかいうのを持っています。他人は視線に敏感で、場合によってはそれを汚らわしく感じる。実感がわかないとはいっても、ジロジロと他人を睨め付けることが失礼なことだということくらい、大概じゃない人たちもほんとうはうすうす勘付いています。だから、窃視がばれて目が合ってしまったときなどはやっぱり、むしろ普通にしてる人がそうなったときよりもはるかに強く、気まずい思いをするわけです。ああ自分ってなんて気持ち悪い。こんな下品な瞳を僕は私は有している。自分の卑俗な視線が他人の視線さまに火傷してそのまま自分に跳ね返ってきます。私の目の隈は赤と白とのだんだら模様。手を引いてくれる美しい娘も道化もありません。

 そういう経験を繰り返すとどうなりますか。他人の視線に怯えながらも見ることを止められませんのです。だから倒錯してしまいます。自分は誰からも注目されていませんのに、それでも邪悪こそははっきりた伝わりましょう。そのように思い做します。ひどい場合には、思考伝播……。その人たちは極めて強い後ろめたさを感じながらも、見ます。隠れて、気付かれないように、人に紛れて、窃視します。ああっ、おお、これ。いや、あー。え?しまった。しー。見ていることに気づかれてはいけません。人から見られてもいけません。見ていないふりをしていますし、見られていないふりもしています。なのに悪事を働いていることだけは見透かされる中途半端な透明人間の私です。こんなどっちつかずな自分にもようやく嫌気が差してきます。それでは見ても見られても良い存在になりますか。それとも見られるのは嫌だけどその代わり見ることもしない存在になりますか。いいえ、どちらにもなれるわけがないのです。結局のところ残るのは、本質的な日和見将軍だけです。この、意気地なし!
 
 そんなわけで、人を見てしまうことのその根本には、今まで誰にも注目されてこなかった自尊心のなさが必ず根を張っているのです。あの人が人を見ているのは、正しい仕方で人から見詰め返してもらいたいからなのです。