『勉強の哲学』(千葉雅也)の冒頭を読んで浮上した疑問

 自分というのは、個性的だがしかし同時に他者依存的に構築されたものである、というのはもっともらしい言い方である。しかし、他者依存的な構築を寄せ集めたところで、何らか根源的な自発性(木村敏)がなければ、つまり情報の集まりだけでは「個性的」にはならないということもまた確かなはずだ。そして、その根源的な自発性、「やりたい」という気持ちは、またそれ自体も無色透明ではなくて他者や出来事、出会いや文化によって着色されたものである。にも関わらず、自発的なのである。この事態はどのように捉えたらいいのだろうか。

 多くの人が自分の個性を、なんらか、自らの意識せざる内奥から湧き出て来るものとして反省的に感得している。なのにそれは他者依存的な構築によるものだし、だからといってその自発性はちっとも損なわれては来ない。他の存在者との関わりのうちで生成されてゆく、生成されてくる、そのようなものなのだ、と言えば分かった気になるかもしれない。しかしそれは何の解答にもなっていない。ただ、そのように言うしかないから問いの外形をなぞったというだけである。

 個性、気分、ノリ、理解や了解の暫定的な一まとまり。我々はつい、根源的な自発性のもっとも純粋なあり方を夢想し、それが自分にも備わっている、いや、むしろ自分そのものだという空想を働かせる。それは、一面においては当を得た空想である。それ以外は自分でありえないのだから。しかしまた、それは事実上ありえないことでもある。言語、イデオロギー、他者の思潮や主張、何らかの気分(不安や恐れ、快や喜びや悲しみ、愛憎など)によって、その根源的なそれでさえもが色濃く、それこそ根源的に着色され、切り離されることがない。その、色、というのは生来は全くの無色なものなのか?そんなことはない。生来、生得的(ア・プリオリ)にそれには色がついている(ア・プリオリだがそれは本質的か?それとも付帯的か?)。色のないもの(、、)が考えられないのと同じように、色のない自発性というのもまた考えられない。なぜなら、赤ん坊は生まれながらに声を上げ、自意識もないままに何らかの気分に浸されているからだ。気分とは、何らかの傾向性のことであり、生物学的に言う「走性」と等しいものだと言える。

 かといって、それが全く他者のものだということはないはずだ。情報だけで生き物は動くことがない。死したネズミの前にミミズを置こうが、その骸が動き出すことはない。物事はセンスデータ(ヒューム―ムーア、ラッセル)の集積に還元されるとは考えづらい。愛するものを愛する時、人はそのものを何らかの属性によって愛するのではない。そのものの名において愛する。しかし、そのものから情報をさっぴいてしまうと、根源的なものが取り出せないにも関わらず、全てが消えて無くなってしまう。自己においても他者においても、これは問題になる。個体生成の原理やトロープ、述語に還元されない主体とも呼ばれうるだろう。

 しかしここではとにかく実存主義的な自己気分についてのアプローチから疑問を出発させよう。個体生成論としては、ペルソナの次元から話を進めよう。それからあとでゆっくりと、それが本質性や附帯性とどのように関わるか調べよう。……いずれにせよ、ここには何らかの自発性、すなわち「個性」――「個」性、生命性としての自発性が必要だ。それは自発性でありながら、他者によって構築されていると語られるような、今のところは意味不明のものである。

 他者、しかも他の存在者によって構成されて、それ以外のもの(、、)は無いはずなのに、根源的に自発的で、自己そのものであると言うそれは、一体何なのだろうか。一体何から出来ているのだろうか。どのように出来ているのだろうか。事実上弁別が出来ないはずであるというならば、反対に、権利上は何らかの区別がつけられるだろうか、それを構成する「他なるもの」と、その自発性それ自身とは。

 鍵となると目しているのは、鬱症状などに現れるような「水位の低さ」(低水位:ツェラン)や統合失調症における陰性症状、また健常の一も日常的な気分の範囲内で経験するような、やる気の増減のようなそれである。または、発達障害者や虐待サバイバー、PTSD患者のように、自己の欲望がうまく経験できない事態である。何らか他者的でありつつも根源的に自発的でもあるこの個性――「個」性――が、乏しくななったり増したりするその現象である。それは鬱症状であればまさに水位が下がることであり、自発性が水位に擬えられている事態である。その時、他者性の何が損なわれているのだろうか。自己性がどのように損なわれているのだろうか。水位が低いとはどのようなことを指しているのか。自己性と他者性はここでどんな関係があって、何らかの欲望と関わり合っているのだろうか。