宵闇、公園で子供が遊んでいる

 公園で子供が遊んでいる。
 高学年の子どもたちが嫌な社会性を見せてこんな大規模な遊びをしている。とっぷり日の暮れた午後六時、こんな小さな公園に集って猿山みたいな声を出して、いじめしそうな女の子がいじめしそうな男の子と、一緒になって公園のブランコを定員越えてがたがた揺らしている。不良と呼ぶには可愛いけれど、こんなクソみたいなポップカルチャーが人々の心には必ず巣食っているのさ。ほら、こんな嘘みたいな蝟集の仕方ね、体もこんなに大きくなったというのに、こんなしみったれた公園に夜な夜な集まって、その上自分たちのカワイさ加減に気づかないことときたら、まるで三流のナンセンス映画みたいだ。けれど現実にそこで確かに起こっているんだ。有邪気(、、、)な子どもたちの集会が。遊ぶことでなく集まることに意味を見出してしまった、もはやつまらない子どもたちのハナっから下らない終末がね。でも小学生なんだよ。当然でしょ。

 子供は邪気のないものっていうのが幻想だって、僕は幼稚園にいた頃から知ってたよ。けれどそのことが理解できない大人って信じられないけど本当にいるんだ。みんな建前だって知ってると思っていた、けど違うんだよ、ほんとに信じてるの! そんなに子供のことが遠かったのかな、君たちも昔は子供だったのにね。それとも気づいていなかったの? だとしたら本当におめでたいんだね。そうなんだ、教育関係者はそういうことを平気で言うんだよ。でも僕らはサブカル漫画に描かれるまでもなく、学校に充満する鬱屈した空気を知っていた。ここに快活な遊びなんかない。教室の机の上は退屈と閉塞に絞め殺されそうな毎日で、だからじゃないけどせめてめんたま白く剝いちゃって、よだれ垂らしながら楽しく狂っていられたら楽だから……。そんな空気が僕なんかを平気で素通りして人々のあいだに漂っていた。夕方の商店街でおまけにくれるケチな天カスみたいな仮初の楽しみを、ばかなことや少しエッチなことや不真面目なことやスカしたことなんかに求めたりして、まるで熱いアスファルトの上を踊り歩くみたいにお互い肩をぶつけ合ってた。子供だからさ、みんな歩き方がフラフラしていて、水素分子のように軽やかに衝突し合って、そのことがなぜか愉快すぎて連鎖爆発的に笑った。楽しかったなあ。そんな日々を君が過ごしていないんだとしてら君はきっと本当にゴキゲンな人だったのだろうね。

 だからさ、僕の小学校の記憶は、下らない遊びと汚い空気、それからハーメルンの笛吹きに騙されてるふりした子どもたちの白けた正気。そんな息苦しさの色に塗り潰されててさ、とてもじゃないけど「学校楽しい?」なんてニコニコしながら聞いてくるおばさんなんか僕は正気を疑っていて、ぶっ殺してやろうかなんてところで思い留まってたよ。そんな人が将来子供なんか欲しいと思うかい? 真っ当な子供に育つように願っても、小学生になった途端に彼ら彼女らは欺瞞の塊、糞の山なんだ。そんな幼年時代を僕らは過ごして、そんな夕暮れに僕らは笑った。君らも笑った。見てて笑った。一緒に笑った。みんなでアッパラパーになっちゃって、手を広げてぐるぐるぐるぐる頭がイっちゃったかのように、飽きても飽きても廻っていたんだ。少なくとも僕の目にはそう見えた。僕の耳が、鼻が、舌が、全身が子供たちの遣る瀬ない叫びを感じていた。でもそうではなかったのかな? 今になってはわからない。今となっても理解できない。誰かに聞いてみたいなあ。聞いて問い確かめたい。でも同級生はこの世にいない。誰ももういない。いないのさ。だってそれは僕がもうこの世にいないから。