回復、倫理、許しのこと 備忘録

 例えば不倫の証拠集めって、私怨とか復讐とかそういうんじゃなくて、尊厳を取り戻すための戦いで、こういうところでの勝ち負けっていうのが、虚しいように見る人も居るけど実は本当に大切なんだなって思った。ある種のけじめというか、騙されていたことはきちんと精算しないと心の傷が残る。復讐は虚しいのではない。過剰な復讐がいけないだけなんだ。復讐の連鎖というのは、適度の復讐への逆恨みか、発端の否応ない場合のどちらかだと、初めは思った。
 けれど大概、復讐は叶わない。払った犠牲と行動に、望んだ対価を得られることはない。後悔と心からの反省と苦嘆と謝罪を要求するのに、帰ってくるのは言葉と金ばかり。気付くとそこには泣き寝入りか過剰な罰を求める心かのどちらかしか残されていない。必ず傷は残る。どうしても残る。仮に反省が通用するような人がいたら、それは始めからそんなことはしないはずの人であって、その人の本質は寧ろ(例えば洗脳の)被害者でしかない。ただしそんな人はほとんどいない。だから、本当にそうして欲しい人には決して届かない。払うべき人は払うべきものを決して支払わない。加害者は決して反省しない。救われて欲しい人は救われず、地獄に落ちねばならない人は……。それはこの人間というものの、あまりに強い悪意。過剰な懲罰というのは、本当に望むものをくれないから、代償として深い苦痛を与えなくては気が済まないのだということなのだ。

 私の残念な義侠心がそうさけんだ。許し。許し……?
 宗教的な力をなるべく排したいから、私はこれを許しと書きたい。神に誓って赦すのではなく、人がその行為に対して硬質に許しをあたえると思いたいから。宗教に託つけた許しでは、神が赦せというから赦す、そのような許しでは、必ず苦しくなると思うから。

 許せないものはあるか、不倫とアウシュヴィッツはどちらのほうが痛いか?学生時代の講義を思い出す。ひまわり。許しを乞う時、すでにかれはゆるされていると私は語った。八十点ぎりぎりの優。許すものはどこにもいない。これは許すことの出来る痛みか?その大きさによって、許すことが出来るかどうかが変わるか?不倫は、許すことが出来るか?ホロコーストは、許すことの出来ない犯罪なのか?

 許すのは癒やしであり、しかしある種の敗北である。そう考えるのは私の浅ましい狭量か?俗な暴力性か?過剰な手打ちを求める町人根性か?
 罪を、罪を受けた我が身を、罪に傷ついた我が身を、罪をもって傷つけた彼が身を、彼の罪を、彼の罪を受けたという事実を、そうして傷ついてしまったという事実を、許すことが出来るか?罪に対して正当な罰を与えることが出来たと言って溜飲を下げることが人には出来るか?不快は快では代償出来ないというのに?

 許すのは癒やしである。罪の営みを総体として我が身に引き受けることが出来る、ということである。罪を受けたことも含めてしまった、肯定的な身体がこの我が身であると言える、ということである。罪を否定してきた気持ちも含めて肯定することである。否定してきたのに、そのことを肯定しなくてはならない。否定してきたことを大切にしたままに、肯定しなくてはならない。罪を許して癒やされるというのはそういうことだ。否定を肯定で塗りつぶして、前は気になっていたけど今は気にならない、それは許しがしゃしゃり出てくるまでもない、下らない小競り合いの解決にしか使えない。否定し続けているのに、肯定する。しかも、人格が分裂することなく、統合していて。そんなことはあまりに奇跡的な行為ではないか?

 許すことが出来ないのは苦しい。しかし、許すことはありえない。許すことは、「許すこと」になってしまうのだから!
 許せない。許せないのだから、許すことは出来ない。
 許すってなんだ?人は許せるのか?人を。

 罪人を痛めつけて溜飲を下げるのは許しではない。暴力性の発露だから、それは野蛮な行為だから、というのでなく、ただそれは罪による痛みを他の快楽で代償して、恰も償われたかのように麻酔させるだけだから。確かに麻酔は時に快癒をもたらす。しかし麻酔そのものは快癒ではない。

 許しには罰が必要とされるか?場合に依っては。
 しかし、必ずしもそうではない。許しは交換条件か?そうではない。罪によって失われたものは二度と戻らないのだから、交換は決して成立しない。そうではなくて、相手を許すだけでなく被害を受けた自分を許すことが出来なくては許しは成立しない。罪はなかったことにならない。なかったことにならないのに、それを受け入れなくてはならない。なかったことにしてしまうのは麻酔だ。それは司法だ。それは約束だ。これで手打ちにし、私刑を禁ずる手続きだ。それは社会に必要なことだ。私刑はさらなる私刑を生むから。償いは贖いによって満たされないので、麻酔は傷を本当の意味では癒やさないので、「復讐の連鎖」(チープな言葉!)を断ち切らないから。社会的に罪は終わったと語る仕組みがあることは、必要なことだ。
 例えば財の窃盗ならば話は簡単に見える。しかしここで言われる罪は、司法ではない。司法が許しpermitを与えても、心が許すかどうかは全く別の問題だ。私刑をするしないに関わらない問題だ(それは上で述べたとおり、決して許しは交換条件ではないからだ)。これは残された心の問題だ。心に於いては、どう、折り合いをつけるかという問題だ。究極の折り合いが、許しだ。我々の心は、人が人に危害を加えることを許すことが本当に出来るのか?今問われているのはそのことだ。




 ゆるしは事後的だ。許可は事前だが、罪のゆるしは事後的だ。本来許すことができないものが罪なのだから、ゆるしは本来的に許すことのできないものをそれでも許すということに他ならない。それは癒やしだ。罪は傷を作る。犯されたそのものを傷つけるだけでなく、罪を犯したものも傷つく。過ちは過ぎてしまったから文字通り取り返すことが出来ない。それでもそれを「ゆるす」ことが必要なのだったら、それはかの傷を癒やす必要があるからに他ならない。それは他人の傷を癒やすことで自分の傷を癒やすことが必要だからに他ならない。

 なら、もう許してくれる人が誰もいない時、かれはゆるされないのだろうか?
 彼はいつまでも癒やされない。癒やしてほしくても、いつまでも癒やしてはくれない。だって、癒やさなければならない傷を持つ、害された本人がもういないのだから。本人にもう癒やす必要なないのだから、だから許しは行われない。どれだけ脛に傷を持つ彼が祈り振り返り見つめ向き合ったとしても、彼をゆるして癒やすということは決して起きない。けれど彼はゆるしを求めてさまよい続ける。それなら彼は何のためにゆるしを乞うのか?彼はゆるしではもう癒やされないというのに、彼はゆるしで癒やされようともがくというのに、彼はゆるされることで罪した人を癒やしたいと願うのに、それが決して叶わないというのは、悲劇でしかないというのか?地球上に悲劇を増やすということでしかないのか?


 罪人が頭を垂れてゆるしを乞うている。前に立つ人は手を翳し、その人の清らかさによって互いを清める。双方の同意が罪を雪ぐ。
 ゆるされぬ罪人。聖人。ゆるせぬ傷者、ゆるされたがらぬ罪人。決定的に後手有利の盤面で、先手が辛うじて与えうるのは、引け目というか弱いプレッシャーか、宗教的な脅し。ゆるしが成立する時、罪はどこへ消えてゆくのか?ゆるされない時、罪はどちらのものであるのか?ふたりの間に罪はあるのか?