死者から生者への“レクイエム”

 「死者から生者への鎮魂」とは果たして可能なものなのだろうか?


 まずは「生者への鎮魂」という部分である。鎮魂とは、荒ぶる魂をおさめようと働きかける儀礼のことだ。未だ静かならず静まらぬ魂を、鎮める営為を我々は鎮魂、と呼ぶ。
 多くの場合、それが取る対象物は死者の魂となる。死して、本来静まるはずの彼の魂が安らぐことなく、憩らうことなくなんらか働いている魂。それをあるべき姿へ鎮めるというのが鎮魂の儀の通常の姿である。

 ここには、死者の魂とは安らかにあるべきものとし、彼らが安らいであることを欲する類いの生者の願望が見える。死者は働いてはならないし、生者との交流も許されない。この世は生者の王国であり、生者の営為のみを考えることによって生者はその生活のノモスを維持する。
 鎮魂儀礼はノモスとカオスのあわいに位置している。生者たる秩序が、生者ではない、死者たる無軌道な混沌によって冒されることなきよう、混沌そのものを鎮める天蓋の役割を果たす。そうしてコスモスを形作る。P.L.バーガーによる、聖なる天蓋である。


 それを生者に施すとはどういうことか。
 生者の魂を、静まるべきものと規定するということである。


 生者の魂はそもそも働いてあるものである。なぜなら彼らはanimaなのだから。働いてあるそのあり方によって、生活が作られ、また破られる。生者の魂は静まらずして代謝をし、古きを捨て、新しきを作り、またハイデガーに教えられるまでもなく、温きに学び来るものを憂慮する。いずれにせよ、静かならぬ事こそ生者たる証である。
 その生者の魂を鎮めるというのである。
 生者の魂は働く。働き、動き、静まることはない。しかしノモスは止まる。留まるように、生者は働く。これが破れてしまうと、カオスの流入を許す。だから生者の動くのと対照に、ノモスの世界は動きを止めようと為される。彌縫的な世界。

 生者の営みの系たるノモスを、第一義的に破るものと言えば死だ。それは生者の営為の決して及ばぬ無限遠点である。しかしそうでなくとも、ノモスは事あるごとに小揺るぎしている。何によってノモスは衝撃を受けるか。生者の世界は何によって脅かされるか。カオスである。しかしカオスでなければ、それは生者そのものによってである。生きる生者の生きる証。そのものによってノモスは揺るがされ、内側から生じたカオスに食い破られる。


 そのような生者を鎮めよと、そう言うのだ。


 そして「死者による鎮魂」である。
 死者は行為できない。これは死者というものの定義により必然である。だから死者は端的に鎮魂することはできない。ではどのように彼らは鎮魂する事ができるか。それは生前の死者によって。
 死者が生者の王国になにかを為すとすれば、それは彼らの残したものによってである。プラトン的な魂の不死というのは確かにそのようにして(ただし文明と記憶の残る一定期間に限り)成されるのだが、では鎮魂の儀にとり何が残されるべきか。それは儀礼の燭台でも聖餐でも抹香でもましてや儀礼システムでもなく、言葉である。少なくともそう考える者がいる。

 不死なる死者。それは彼らの声である。それはどのような声か。長い、短い、大きい、小さい、高い、低い、煩い、酷い、柔らかい、老いた、若い、女の、男の、そうでないものの、そうであるものの、無念な、喜色の、呪う、祝ぐ、様々の声。
 彼らは鎮魂により何を望むか。死者は望むことがない。端的でなく、決して未来を気遣うことはあり得ない。彼らは過去に取り残された遺物だ。生者にとる異物だ。顧慮する主体を持ち合わせず、ただ声だけが生者の王国の天蓋に反響する。意志なき死者。遺志のみの死者。生者は到達できぬ死者。死者は通りすぎてしまった。互いにおける深い断崖。ただ声だけが谺する。谺し、生者の耳に入る。自らの鎮魂を叫ぶ声。なにを望むことなく、ただ生者の鎮魂を求める声。それは如何な望みでありうるか!
 

 そのような仮構をつくる者さえ、生者である他あり得ない。声も、音律も。死者は概念を駆動しない。死者はシステムを動かさない(うごかされることはあっても!)。
 真実を語る口は決して死者による鎮魂など語らない。それでもこのレクイエムを語ると言うのなら、それは生者が死者の骸を被り、同族に向かいて発する警鐘であろう。本物の死者がノモスに訪れる前に。仮面舞踏の淫靡な騒乱の最中、先んじて生者に耳打ちしているのだ。