無意味な定点観測

 具体的事実に則さない気付き。普通は寧ろそういうことは少ないのかも知れないから、僕が少し変わっているのだろう。四六時中一人でいて、一人で一人と向かい合って、自分を見つめ続けていて、視線がプリズムとなって、〈私〉のかけらが砕け散って、それを一人で手に取るのだ。




 僕の「詩」には内容がない。書きたい気持ちが定かならないのに書き進めようとするから、ぼんやりと不定形な至って気持ちの悪いものになる。自分でも何を書いているかわからない。とにかく何か自分も知らないものが焦点を取って現れたらいいなと思う。そのくせ自分の感じたものじゃないものが現れたように見えると、言葉に謀られたような気がして理不尽に憤るのだ。

 僕の言葉には行き先がない。目的地がなくて、常に通過点を記録観測してそれきりらしい。それを粉飾決算するものだから、ますます歪なものになる。建て増しを重ねた古い家みたいだ。目的も主張もなくて、自己目的化することすらない。人に分かる言葉じゃあない。僕の言葉は生きていなくて、ただ生まれてしまった戸惑いに辺りをおどおどと見回している。周囲の反応を窺って、人の群れが目指してゆく方向へ自分もふわっと移動していけば、いつの間にか意識とか目的とか意志とかが人と同じように芽生えてくるかも知れない。そんな自分でも信じていない期待をしている。それは「電子少年トロン」が語る「一陣の風」みたいな期待だ。自分では動くことの出来ない葦の群体に意識を与えてくれる外からの力。……でも、僕の場合は風に揺れてるように見えて、実は風に揺れるみんなに合わせて揺れるロックンフラワーみたいなものだ。だからやっぱりだめかもしれない。

 これって「早く人間になりたい」式のありふれた物語かな、と思っていたけれど、そういうものって案外始点は人間側が人形を「人間にしてくれ」と願う、エゴイスティックなものが多いらしい。人からの誘いがあって、感情を与えられまた望まれて初めて、人は自分でも感情を持てるようになる。けれども風見鶏は、勝手に偉そうにし始めることがあっても、道行く人が彼を見上げて心をときめかせることなんかないかも知れない。大概人間のふりをしている時点の人形は人間になれない。自分の意志でなにかに立ち向かおうとしたとき初めて自分の望むものになれる。何かを色濃く、しかも自然に感じるためにはそういうことをしなくてはいけない。――ほら、また思考の定点観測になってきたでしょう?それについてどう感じた?どう思ったの?感情で色付けしないと自分も人も共感出来ないよ。

 そう思ってはみたものの、結局自分は何も感じたくないのか。これまで語ってきた虚しさが嘘だとは言わないけれど、ああいうしみじみとした感興に憧れこそすれ、そうなりたいとは思えていないのかも。のんびり進む田舎列車は、終点に着かないから車庫にも入らない。始めは行き先を決めていたけど、気付いたらそれを通り過ぎている。もういっかってみんな思ってるよ。道中に広がる菜の花畑を見せて、それだけで十分でしょ?と乗客に暗黙に語りかけている。そこにあるだけでいい、それだけでいいんだ、と、僕のからだは先んじて知っているのかもしれないのだから。