人格についての呟き

 人格というのは点が立体や四次元実体のなかに沢山のものが存在している状態のことを表す言葉で、これを語るというのはそれらを繋いで線にして物語にするということ。およそ無数と言ってよい程度の数量の点がそこにはあるわけだから、これを語り尽くすということは計算上可能でも現実的には不可能だ。仮に要素が十個しかなかったとしても
[10!+10P9+10P8+...+10P1=9,864,100(通り)]
あるのだから。実際はもっとたくさんある上、要素の性質は目まぐるしく変わっていくし、同時に複数の性質が重なっていたり正しく要素を観測できなかったりするのだから、これを確実に定量可能な概念として厳密に措定しようと夢想することは実用的にナンセンスと言ってよい。

 また、二次元上に点が配置されているわけではないのに、語る営みは視点を固定して二次元上に射影を映す(立体視も二次元平面の延長でしかない)営みでもあるから、必ずそこには歪みが出る。人の想像力はその歪みによってomitされた「奥行き」を補完するから会話が成り立つけれど、この機能が少々弱いと「言葉通り」に捉えて平面的な人格を想定してしまうバグが生じる。


追記7/27:ただし気を付けておかなければならないのは、この通り事実上不可能に思われる人格の把握という処理を、我々は何となく日常的に行えてしまっているという事実である。ここからはさしあたり以下のような示唆が得られるだろう。
 必ずしもすべての語りや行動を実際に経験しなくても人格の総体はおよそ得られるという経験的事実と、しかし確実でない「人格」というものがそうして把握されるがゆえに、人の語りはまた行動、繋がりや営為は意味を失わず、これにおいてこそ豊かな彩りを感じるのだ。)