縄文土偶についての試し書き

 縄文土偶は、宗左近の断片的抽象詩としての性格に加えて、三善晃の原初への意志、殊にセクションにぶつ切りにして行く異色の作曲技法により、スキゾフレニックな印象を強く与える。常に前言を叩き切って行く意志がある点において、本質的には異なるが。


 宛ら、我々には断片資料しか残されていない、この事による物理的な断絶:縄文人が、形となっているかのようである。和音の断面(、)の連続なのである。もしくは浮き島の羅"列"......しかしこれは列も成さない。我々には縄文に至ることが出来ないのだ 。血縁的にも弥生人縄文人を駆逐した。言語以前に属するという土偶。思えばこれらの土偶や土器は必ずバラバラに欠け割れた状態で出土する。これが、意図的に割られて埋葬された祭具なのか、時の経過と共にその自重故に圧壊したのかはわからない。しかし一目見たその絶望的な姿容は我々に、否応なく彼らの了解不可能性を突き付ける。


 炎のような熱情、暴力的なモチーフの重ね掛けに反して、セマンティックな次元においては水に纏わる言葉が強調される。川、水飛沫、流れ、魚、地下水、アケビの実の肉汁、坐礁、涙、筏、滝壺、ザリガニ。炎は、朝焼けの雲のあわいに俄、それを放つのみである。


 決定的な切断は、形式における言葉の断裂に間接的な仕方で現れる。対して眩暈をはじめとする、困惑の数々。「音楽」に「瞳はなく」、見つめ続けても見られることはない。彼の視線は向こうに届くことがない。逆接や否定の繰り返される詩作。連用接続の多さからもつかみどころを見せない。断定することが出来るのは、体言か、「はじけでなければならぬ」、義務を伴う言説。あとは迷いと不明の中であって、詩作の総体は中空に放り出された土器の破片なのだ。「滝壺の底は抜けていて 二人の王/いつまでも落ちない眩暈となる」底抜けの眩暈は、その目指すところへは永久に届くことがない


(追記7/27:考古学および遺伝生物学上、縄文人弥生人とは混血が進んでいて、現代日本人のおよそ20%ほどは縄文の血が入っているようである。しかしさしあたり、ここでは「駆逐した」という宗の解釈に則って記した。文化的に弥生人や和人は縄文的なあり方を駆逐したことも確かであるから。)