未推敲

 意識と脳をメディア的関係で繋いだところで(そしてそれが当を得ていたとしても)、意識の問題は全く片付かない。なぜなら、脳だけがあってもそこに意識(や生命)は発現しないからだ。この"原初の一撃"の飛躍が何ら解決されていないのだから、単なる現状確認にすぎない。Genetischに意識=認識の問題を見なければならない(発達的現象学の参照が待たれる)。しかしひと度意識がそこに発現してしまえば、あるものといえばそれは完全に物質のみの世界であり、また平行して意味のみの世界である。二つの世界が分かたれたあとの理も大変深淵で興味深いが(世の中のほとんどの自然科学や哲学、人文科学はこれをかんがえているのだから)ここでは、それら二つを繋ぎ止める、創世記的原初の一撃が必要だというのだ。big bang、そして生命の誕生と定義と本能の解明である。それがなければ本質的には、認識論の解決の時は決して来ないだろう。


 敢えて短絡していうなら、これは永遠に解決不能なものかも知れぬ、そこ(、、)へ辿り着くための演繹的手段を西田を真似て延々繰り返したところで、フラクタル図形のように等しき模様が現れるだけであるかもしれぬ。ギリシア人や、数多の優れた哲学者思想家らのように、異なるパラダイムをそこ(、、)へと投射して、それで幾ばくかの確かさを得て汲汲としてあるにとどまるのかもしれぬ。存在論的終端はそのようにしか知られぬのかもしれぬ。しかし私は知らない。まだ彼らの思索をはっきりと知らない。どんなエキサイティングなものがあったのかを知らない。だから、それを探すために学問を学ばなければなるまい。


 使命感?いやいや、知るための一歩。目的の手段。しかし、その手段に快楽は潜んでいるか?我々は身過ぎ世過ぎから離れ得ぬ。短絡した快楽がなければ、どんな高尚な真理もつかみ得ぬぞ!!!(これが僕の最大の問題!如何な敬虔な信徒であっても日々最低限のパンを食する)


 心は自由に宇宙を飛び回るか?今に至って尚私たちはこれを笑うことはできまい。なるほど物理的メディアは完全に我々の肉体だが、それを離れて潜在的身体は延長し(おかしな言い種だ。精神なのか物体なのかどちらだ?本質か延長か)、遥か山の向こうの友人を想う。そもそも、心のメディアは知られても、「どこにその意味がある?」という問いそのものがナンセンスではないだろうか?文字の印刷された紙があって、語句を指差すことは可能でも、紙面上に発現する意味はどこか(、、、)と空間座標に特定することは全くの無意味であることと同じである。意味は精神であり、というより精神空間の中に意味があるのだ(この場合の空間というのはアレゴリーである)。


 だから私ははっきりと二元論者だというのである。意識は脳の働きの結果か?現象の観察からはイエスと確かに言うが、本質的には違うと言いたい。そもそもその問いが意味を為していないように思われるから。[脳科学と心の臨床、岡野憲一郎、2006,岩崎学術出版、p.27に応答した議論]

 意識―意味は物理的メディアに依存している。逆に世界は、意識―意味に依存して存在を許される。それは単に、世界と言う名付けが行われないだろうし世界内にあると言う直截乃至間接的応答(つまり最低限、生きてあると言うこと)もないだろうから。生きてあると言うことは、世界を世界として名付けると言うこと。生命なき世界は、世界未満のなにかである(であるからこそ名付け得ぬ渾沌(、、)であり、名付けられるとそこにはあるものとないものとに分かたれる)。

 で、生命活動だ。生と死とを別つ物理的な何者かと言うのは何か?ダチョウの羽根一枚分というのは冗談として、死亡の傍証としてよく上げられるのは、例の[瞳孔散大、自発呼吸停止、心停止という]三兆候や、体温や血圧、瞳孔反射などで測られるバイタルサイン、また代謝の有無や脳機能の観察などでようやっとたまさかの知見が得られているが、その瞬間(、、)の不可逆の変化というものの本質をつかむことはできていない。まあ、なんとなく、そういうのはやはりなんと言うか事後的なものであり、最終的にからだが動けば死を免れ、無理になったらもう死亡、みたいな緩やかで確率的なものが、唯物論的な死ではないかと思われるのだが、とにかく意識―意味と世界(未満)とが交わることができるのは確かに生と死の瞬間のみなのであるなあという感慨に囚われる。しかしながら、死が緩やかで確率的なものであるとしたら生命の誕生もまた、ぱしん、と"原初の一撃"によって開闢されるような代物などではなく、程度問題でなんとなーく存在が許されたり許されなかったりするものなのではなかろうか。ハイデガーは『技術への問い』の中で、石は無世界的に(weltlos)、動物は貧世界的に(weltarm)、そして人間は世界形成的(weltbildend)に存在するとしているわけだが、この世界に今や住まってしまっているような我々も、起源を辿れば無世界的なものからタンパク質の不思議な働きで、創世記的に歴史をたどるようにして徐々に貧世界的になりゆき、ゆくゆくは非常に世界に満ち満ちて存在してゆくということはできよう。しかし、そうするとやはり却って生命への問いは先鋭化されて浮き彫りになる。このモデルでは、どこかでタンパク質などの複合体が生命を持ちうるものであるような変化を持つようになるのだが、しかし未だに我々は唯物論的世界から生命を作り出すことに失敗し続けているではないか。生命科学的な知見を待たねばならないのだろうか、哲学的生命、認識の問題も......。そんなことはあるまい。勇敢なる先験隊がうんざりするほどの長きに亘った隊列を組んで我々の前を行くのが見えているではないか。まずは彼らを少しく追うところから始めねばなるまい。きっとそうであろうよ。

(2018/11/7)