論理に対する、判断の原理的な飛躍について

 判断と言うものは論理的思考から導き出されるものではなくて、最終的にそこを飛び越えるものは価値観、つまり選好なのだと思う。だから、合理性と言うものが何への選好に基づく論理的思考であるか、という判断は、時代や思想によって簡単に変わりうる。
 ここでは、事実判断と価値判断は全く異なり、前者、つまり論理からは後者は決して演繹されることはないという話をしたい。



 卑近極まりない例で恐縮だが、AniTubeの問題をとって考えてみよう。かのサイトは、著作権侵害や不正な経済的損失など、多大な社会的不正義を巻き起こした違法動画の投稿サイトだ。最近になってここへのアクセスが制限されたようである。この制限の是非をめぐる議論を仮想的に展開して、それを考察の舞台としたい。
 社会的な正義を為す、という大義に対立する主張として、精神的修養、つまり"癒し"を立ててみよう。かのサイトにアクセスできなくなることによって、ある人々にとっては、そこから供給されていたところの、他の手段によっては得られないような精神的回復を妨げてしまったかもしれない。少なくとも、皆無ではない程度には可能性があるだろう。
 この二つが対立したと簡単に仮定し、前者の利害を優先した仕組みについて見てみることとする。


 ここで、このサイトのアクセス制限に踏み切る際に行われたであろう、論理的な認識はこうだ。
 前者の不正義のスケールの大きさと、後者の正義の大きさとを独立に判断する。そのことにより、先のものは比較的損害の規模として大きいと言うこと、後のものは代替手段との差異にはそれほどの差がなく、精神療養においてさほどのダメージを与えないと言うことが導き出される。
 それにより、後者を無視して前者の効用を取るというわけだ。

 しかし、両者は質的に異なるがゆえ、本来これの大小を比較することはできないはずである。5iと3とで、どちらが大きいか、と問うことが無効なのと同じである。ここにおいて、事実認識は困難に突き当たるように見える。



 まあ そうはいっても話は始まらない。質的に異なるものを比べることがここで求められているのだから。そこで、二者相対的な価値の差異を、異なる基準において射影をとる。
 これによって、両者の質的差異を捨象し、これの大小を較べることはできるようになるだろう。事実、あらゆる損得計算においてはそのようなことばかりだ。例えば経済的な損失の指標によって。


 だが、この操作は、論理から確実な判断を導き出そうと言う目論見を達しようとしても無駄なのである。なぜなら、この論理的思考から導き出されることは、両者の大小の事実認識までだからである。
 ここから先、後者のリスクを無視する判断に踏み切るには、「同質な二つの事態について、リスクトレードオフが適用される状況下では、影響が少ない方を無視するべき」という、価値判断が必要となる。影響が小さいものを優先的に無視するべき、ということは何らの事実判断ではないのだ。


 さらに議論を遡ると、射影をとって質的差異を捨象することで、質的に異なる二つの要素を無理に比較しても、そこで得られた比較という事実判断は信用ができる、と考えること自体にも選好が含まれているのだ。無視するべき部分を認めることによってそれがわかる。

 したがって、この例においては、社会的不正義を優先するか、精神的修養には敵わないとするかは、結局のところ完全に価値判断、選好、好み、通用している道徳観念の問題でしかないのである。



 ......なお、この言明自体は事実判断であるというわけで、決してAniTubeへのアクセスは制限されるべきではなかったと主張したいのではない。あくまでこれはものを分かりやすくするための一例である。個人の見解としては、アクセス制限の是非はともかく、海賊版の流布は精神的修養のメリットを遥かに上回る損害を与えるので、アクセスできなくなること自体にはおおむね賛成である。

 とにかく、いかなる行動「かくあるべし」というのには、論理からは導出し得ない価値判断、選択の勇翔飛躍がある、ということだ。

(追記:合理性の相対的側面について、三浦俊彦『下半身の論理学』(青土社、2014)p.250-253の議論が参考になる)