「考える」ってなんだろう 序論?

 考えるってなんだろう。何をすれば考えたことになるのだろう。すぐにわかるか、永遠にわからず教えられるかのどちらかしかないのではないのか?アナログな「考える」という営みなど存在しないんではないのか?

 「〇〇から☓☓が言えます」なんてこと、わからない人には一生わからない。もしくは、事実認識による知識が不足しているからわからないように見えている。わかる人には即座に自明の事実だ。
 たとえば数学が僕には「わからない」。それは、一体どういうことか?論理パズルというのは、たくさんの「気づき(!)」が時間差で重なって進んでいくもの?「気づく」とは、時間的なことか?瞬間的に自明なことではないのか?だとしたら「知っているもの」しか知ることは出来ず、既に考えられたものしか考えることは出来ないだろう。
 それを棄却し、時間的なものだと措くなら、閾値に達する前に頭の中で 何 が起きているのか知る必要がある。 何 が緩やかに移行して、閾値に達するのか?この「何」こそがきっと、連続体としての思考の素粒子のはずだが。――つまるところおれたちは、考えるというときに一体何をしているのか?

 同じことは文章を読むときにも言える。なんでも、意味を看取するもの全てに於いて言える。意味というものが焦点を結ぶというのは、一体なにが閾値を超えるというのか?
 前兆がなければ変化は起きようはずがない。けれどその前兆、連続体としての変化というものが、思考に於いても文字や図像の認識に於いても、何によって行われているのかわからない。わかった、と思ったその時にはそれはもう「気付き」に転化してしまっていて、その以前の細やかなそれの濃やかな姿を、見ることができない。
 考える、というのが、細やかな気付きの大局的連続、仮現現象的なイメージであるとするならば(仮現現象と違うところは、受け身の知覚ではなく終始の能動であるところだ)、その「細やかな気付き」、それをもたらす思考の因子は何なのかということだ。気付く前と気付いたあとで何が違っているのか?
 いや、問いはこのように問われるべきだろう。「気付きゆくとき」というのは、一体何がその値を増やしているのか?閾値に達するその「値」とは一体何なのか?何が起こっているのか?それ――その「何」――はどんな意味(、、)であるのか?我々が「考える」というとき、我々は一体何をしている(、、、、)というのか?



 これは、「考える」ということが(特別な意味でなくベタな意味で)何なのかわからないからこそ発される問いだ。考えることの出来ないものの発する問いだ。それは例えば、今この、私の「思考」に於いて、白状すると私は、「考える」ということをしているとはこれっぽっちも感覚出来なかったのだということ。
 全ては自明のことでしかない。そのようなものを汲み上げているに過ぎない。何某も新たなことやものを生み出していないという深い劣等感が、私にある。それ故にこの問いもある。
 「頑張る」ためには「考え」ないといけない。これはたとえば「勉強を頑張る」「トレーニングを頑張る」ということに限った話ではない。ある人の任意の何かについて、その人が一人前に「頑張」れているというとき、語る人はそこに、明らかに自発的で創発的な思考があることを含意しているから。けれど、私は「考える」ことが出来ない。どれをとっても、人の言う「考える」ということではないように感じられる。

 例えば私が何かをものすとき。そこで記されているものの出所は、自明のことか、心象の汲み上げ描写か、たまさかある散漫な思い付きかのどれかであるようにしか思われない。連続的な「思考」の働いていることを、どれほども知覚し実感することが出来ない。
 それは一瞬の「閃きflash」であっても、継時的な生産物、「考えthought」ではない。現在形で生々しくあり続ける爪痕ではあっても、過去となり「考え」を「蒙った」ものではない。痛々しいほど鮮烈である反面、意識し続け(、、)なければ消えてしまう虚しい現在ではあっても、流されゆきつつあれど確と記憶に結晶する、思想ではない。
 また或いは人との会話。そこでは私の「思考」はおどみ止まり、箍が嵌められたかのように、ガッチリと固定されていて「動く」ことがない。手持ちの知識、手持ちの閃き、手持ちの「閾値」を使い潰すことでしか会話を続けられない。相手に触発され、また相手を触発する、その連鎖としての「会話」というものは滅多に成り立たない。
 更に加えるならかつてすべての私。「努力」を要する活動もしてきた。そのはずだった。しかし振り返ってみてみると、そこにいたのはシステムに乗っかり意思なき木偶と化した自分。純粋に行為そのもの塊となって、人間ではなかった自分。それは効果を最大限発揮することに貢献し、また真に(カント的)道徳的ですらあったかも知れない。しかし「人として称賛される力」を有しているとは認められなかっただろう。誰に?他人に。自分にとってもっとも遠い他人である自分自身に。
 だから私は「頑張る」ことがわからない。何を耐えれば、何を続ければ、何を「考え」ればいいのか、わからない。そしてそれはとりもなおさず、「考える」ということがわからないということを示してしまう。

 それでもたまさか少しはキャッチボールが成立することがある。結果として何かが生まれ、振り返るとほんの淡い、「努力」というものの這い擦った痕跡が見当たることがある。
 私はその僅かな縁に頼って、なんとか機制を理解したい。人の言う、そして自分も知るものとしての「考える」という事態を理解したい。その隘路から「頑張る」ということに手を伸ばしたい。私にも辛うじて許された、その微かな「普通」を手繰ることを通して、きちんと「考え」られるようになりたい。私は悲しくも、そのように企むのである。