雑記5
やる気はあるのに金銭的な余裕がないせいで道を諦めなくてはならなくなった人。余裕は人並みにあるけどやる気が出なくて道に進むことが出来ない人。どっちのほうがきついんだろう。どっちもきついよな。たぶん。一番不幸なのは、お互いにお互いを贅沢だって思って逆恨みすること。
理解を必要とせず自足している人間は、魅力的だ。貧困に喘ぎ、絶えず理解を求めようと説明を繰り返す切実な人たちにはないものがそこには見える。
自分が救われたことを書いてもいいけど、その仕方を他人に敷衍しないでほしい、鳥肌が立ってしまうから。それが深夜ポエムの押し付けがましさだ。
ポエムは作者を示す記号であり、作者が消えて読者がその前に立ったとき、それは示す当のものを失って押し付けがましくなる。
反対に詩は何者をも示す記号でない。それで自足している意味内容だから、それは作者を指し示さず、それは直ちに読者のものになる。芸術一般そうだろう。
自己の特異性を「作品」を通して示そうとするときそれはどうしても深夜ポエムになってしまう。そういうこれはポエムだろうか。それとも何事かを示す述定的文章にきちんと見えているだろうか。
若く美しい 老いさらばえて醜い
これは常に一つのセットですか。
若くても醜い 老いてなお美しい
これは逆接です。
若く未熟だ 老いて成熟している
これは内面の形容。見てくれの美ではないです。
若く瑞々しい 齢を重ねて重厚だ
これは両者痛み分け。優劣を覆すものではありません。
若いから醜い 老いたから美しい
これはありますか。
老年の身体に、若年の身体を上回る美(逆説的な美や逆接、精神的な美しさではないです)が認められますか。
末尾に来るのは疑問ばかり
退屈な虚偽ばかり
責任逃れの拒否ばかり
信じられない歔欷ばかり
我々は読書するとき、自我や自己をなくしている。現存在は書物と私とのあいだに、立ち・現れてきた、意味に統合され、「気づいたら」時が経っている。現在において時は進まない。というよりは、気づくその時まで時間は消滅している。人は観測者的であるという客観の地位を手放して純粋直観に一元化する。このとき人は「考え」ているわけでもなければ、なんらの「もの」でも実体でもない。
逃げるというとき、自分はどのようにすればよいのだろうか。
呪縛から逃れるというとき、僕は何に気をつければよいのだろうか。
自分をいたわるというとき、どうしたら自分をいたわったことになるのだろうか。
理解のあるフリしてしっかり持ってる。
自由を与えてるフリして離したくない。
弁えてるフリして執拗に監視してる。