「死にたい」

 なんで死にたいなのでしょう
 自己破壊の衝動
 他の衝動ではなく

 苦しみ?
 他の苦痛なら苦痛の消去を望むはず
 なぜこれだけは自己の側の消去を望むのですか?

 死が特別なものだとは昔からとても思えませんでした
 確かに死は日常至るところに空いている穴
 危険で圧倒的な虚無という力ですが
 それは癌や殺害や轢死や老衰や溺死などと同じく偶発的なもの
 何かの災害でしかないものだといいます
 概念としての死はたしかに特別ですが、それは概念であって、実体においては存在しない
 センチにならないと意識はされないし生はこれによっては彩られていない
 死という概念は学習されるだけで、しかも実在しない超越
 触れることは出来ませんから
 そして上のような数々の死は、偶発的で個別的で確率のそれぞれに低い災害のようなもの
 まさしく、穴
 なので

 なのに
 なんでここで死というものが出てきてしまうのかしら?

 タナトスとか死の欲動とか
そういうものに逃げ込む理論化は安易だから避けたいのです
 生は特権的だが死はそうではない、なぜなら私らは生きているから
 私どもは死を思っていない(退屈なら分からなくはないのです)
 終端にある生の終わりは死ではなく生の一部
 生と死という対概念ではない
 死は偶発的な出来事(手に取ることができるもの)か、超越的概念でしかない
 多くの超越的概念と同じようなもの 
 生は、この経験の現場という、常に触れられながらも手に取ることができないもの
 唯一無二の経験の現場
 だから生に比べて死はあまりに軽すぎる

 そう思います
 生のないものというのは死ではなく物であって
 誕生の対概念は死だが生の対概念は死ではないと思います
 誕生も、偶発的な他者の誕生か、もはや手の届かない超越的概念
 生の中にすでに終端は織り込まれていて、
 それは死と呼ばれ得ますが、まさしく死であるのではなくて
 それは死と呼ばれ得ますが、それは死ではなくて生だと思うので
 死と呼んでは誤ると思うのです
 死はたしかに必然ですけどそれは死ではなくて生の終わり
 死は空想上の産物
 生の終端を切り取って、わざわざ名前をつけるようなもの
 それには本来名前なんかなくて
 ただ「生が終わる」というだけのものであったその
 そのはずなのに……
 だからそれはただの生の終わりです
 小さい、小さい
 生と比べてしまっては
 私どもは現に今生きているのですから
 苦しみの中を生き抜いて死にゆく生
 その只中に全霊で触れているのですから
 そんな現実というもの
 現実というものにいかにも不釣り合いではありませんか
 死なんてものは
 この圧倒されるような現実にぶつけられるには

 他者の生の終わりは、偶発的な出来事で、経験として手に取ることのできる、死
 それは、まさしく死と呼ばれ、死でありますが
 自らの生の終わりは死とは呼べなくて端的に生の終わり、
 生という言葉にすでに織り込まれていて改めて指摘しては、
 畳語となるだけでなく見誤ると思われるのです

 だから余計に、
 この「死にたい」という言葉が、他の、
 どの言葉にも置き換えられず
 自らの悪を剔出したいとかそういうことでもなく
 実に自然に、理由もなく自己の破滅を願ってしまう言葉である
 それが見事に滑らかに口をついて出てしまうというの
 それは信念に反していて
 理由の分からぬ故なきことなので困惑しているのです。


※追記
 しかしこのように俯瞰した生というのもまた現象学的な誤謬なのでしょうか?
 超越的非生命を先取している誤謬を踏んでしまっているのでしょうか
 生の只中にいるのであれば、終端は暗黒裡に沈んで手に取ることのできない虚無なのですから